偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

「セルフ・ネグレクト」

もう数年前のニュースだったが、ある親子が餓死したという記事を目にした記憶がある。彼らは市役所から生活保護を受けるように、と再三促され家庭訪問もなされていたのにも関わらず拒否し続けた末の結末であったと記憶している。
私はこの報道にかなりショックを受けた覚えがある。なぜ、こんなことが起こるのか。そしてこの時に初めて「セルフ・ネグレクト」という言葉を知った。社会保障の網や社会的繋がりから零れ落ちた人たち。彼らは助けを求めることもせず、文字通り自分自身を「放棄」する。その結果が、餓死という悲惨なものであった。
これは決して他人事ではない。日本社会はどこか、平均台の上を歩くようなところがある。高校に進学できなければ終わり、その次は大学、就職……とどこかの段階で躓いたり、外れたりすればメインストリートに戻ることは困難な雰囲気がどこかにある。
中学3年生の子どもが、進路に悩み電車に飛び込む。
これは普通のことではない。私たちの社会の何がそうまでさせるのか。そして、「セルフ・ネグレクト」にはそうした社会と、そこに生活する人の縮図がある。
今回は、「潮」6月号より「セルフ・ネグレクトとは何か」を参考にセルフ・ネグレクトについて概観していきたい。

セルフ・ネグレクトとは、日本語では「自己放任」という意味である。生活の維持に必要な行為をしないために生命、健康、安全が損なわれる状態に陥ることを指す。
例えばゴミ屋敷や多数の動物の放し飼いによる住居の不衛生や、食事、医療サービスなどの拒否によって健康や安全に悪影響を及ぼすことなどがこれに当たる。最悪の場合は死に至ることもある。
日本においては、2006年に高齢者虐待防止法が制定された頃からセルフ・ネグレクトが問題視されるようになった。2011年に内閣府が実施した調査によると、約1万人の高齢者がセルフ・ネグレクト状態にあると考えられている。
ただ、セルフ・ネグレクトに陥る人の特徴として、周囲から孤立してしまっているケースが多く、民生委員や保健師、家族や近隣住民が状況を把握しきれていないのが現状である。孤立死と思われる事例の約8割が生前に何らかのセルフ・ネグレクト状態であった可能性があると指摘する調査結果もある。

では、どのような要因によってセルフ・ネグレクトにいたるのであろうか。
まず認知症精神疾患などによる生活能力の低下が挙げられる。また他者から虐待を受けたことで、自己肯定感を喪失し、セルフ・ネグレクトに至るケースもある。
ただ一方でこうした疾患や虐待といった要因を抱えていない人々もその他の様々な要因からセルフ・ネグレクトに陥る人々もいる。すなわち「ライフイベント」が起きたことで生活意欲が低下したり、個人の性格、家族や近隣の人々からの孤立といったことが挙げられる。ライフイベントとは、例えば家族や配偶者の死などを指す。そうしたショックから日常生活への営みを放棄してしまうといった事例が挙げられる。
セルフ・ネグレクトは徐々に生きるための営みを辞めてしまうものである。象徴的なのはセルフ・ネグレクト状態にある多くの人が「生きていても仕方がない」「私のことは放っておいてください」といったことを口にすることだ。またプライドの高い人、遠慮深い性格の人がSOSのサインを出せず、または支援の手を拒否して死に至るケースも見られる。
その背景に、何らかの疾患や性格的なもの、ライフイベントによるものなど要因が様々なものであったとしても生命、健康、安全が損なわれる状態に陥っていれば等しくセルフ・ネグレクトであると認識することがポイントである。
アメリカでは多くの州で高齢者虐とセルフ・ネグレクトが同じ分類の問題とされている。ともに人権を脅かすものであると認識されているからだ。つまり、他者から放棄されるのも自分自身で放棄するのも、生命、健康、安全を危険に晒すという点においては変わりがないからだ。セルフ・ネグレクトは複数の要因が重なることで起きる。その意味では高齢者に限らず誰にでも起こりうる事態なのである。
人権意識をベースにしたセルフ・ネグレクトに対する理解と対策を社会の中に醸成していくことが必要である。


自己責任を基調とした今の社会の在り方から、いかに変化していけるのか。社会福祉社会保障の在り方も同時に問われているといえる。

ブッダのことば

ブッダのことば スッタニパータ」
中村元
岩波文庫

ブッダの真理のことば 感興の言葉」
中村元
岩波文庫


生きることは難しい。
なんてことを最近は思う。職業柄色々な人と接する。業務の内容よりも、相手との人間関係の方が辛く感じることが多い。
あぁ、人間ってなんだろうな。
生きることってなんだろうな、とその中で考えることがある。時には、私のことを誰も知らない、そして日本語すら通じないような遠い国に行ってあらゆるものを「断捨離」してしまいたくなることがある。
生きることは、多分私を縛ることでもある。それが時には辛くなる。
芥川龍之介だったか…「例えば水に顔をつけたことのない人に、泳げというと誰もがそれは無理だと言うだろう。だが、私たちはいつこの人生を生きることを学んだのだろう」という文章をどこかで見て、それから忘れることができないでいる。
生きることは難しいが、それを乗り越えるためのテキストはあってないようなものだ。宗教や哲学は誰のため、なんのためにあるのかと問われれば、ひとえにこの葛藤と曖昧さにあるだろう。

今年は東洋思想を勉強しようと私は思っている。その中で仏教も勉強したいと思っていて、岩波文庫の「ブッダのことば スッタニパータ」と「ブッダの真理のことば 感興の言葉」を買って読んだ。どれも平易で簡潔な言葉の数々である。その中から、私が個人的に気に入ったものを抜き出して、「正解のない生」について気ままに考えてみようと思う。


あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きた方がよい。命あってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。


私はようやくというか、社会人になって2ヶ月が経った。色々と思うことはある。たった1年前までは緩い学生だったなぁとか、働くことは大変なことだなぁとか、まあ色々ある。
来年春に入職の就活生が職場に見学に来ることもある。
就活自殺は別に珍しいことでもなくなった。どうしてこんなことが起こるのだろうかと思う。
自殺は決して悪いことではないと一方では思う。その人にしか分からない辛さや苦しみがあるだろう。それを他人が一般的な価値観や正論のみで裁断できて決着できるほど易しくはない。
だがそれでも思うのだ。
「生きていなければ、やはり何もできない」
生命あってこそ、とはよく言う。こういう感覚というのは、恐らく本当に生死の瀬戸際に追い詰められた人にしかその重みは分かるまい。摂食障害で死にかけた身としては、「生きてなきゃ何にもできない」というのは骨身に染みて分かったことだ。
悪いことも善いことも、できやしない。
「生きよ、生きた方がよい」
ブッダは更に言う。


立派な人々は説いたーー(i)最上の善い言葉を語れ。(ii)正しい理を語れ、理に反することを語るな。(iii)好ましい言葉を語れ。好ましからぬ言葉を語るな。(iv)真実を語れ。偽りを語るな。


だが、こうした真理を取り巻く「生」というのはあまりにも苦と迷いに満ちている。人は往々にして、難解なものよりも分かりやすくそして自分にとって都合の良い言説や言葉を好む。
人の病理であり、本能の一種ともいえるだろう。「最上の善い言葉、正しい理、好ましい言葉、真実を語ること」。この生のさなかにあっては、一抹の虚しさを、今の私は感じる。
果たしてそれを、今の私は知覚できるのだろうかと。


物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世に生存に戻って来る。
しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。


生きていればその終わりは死として成るわけだが、それは一回きりで終わるものではない。この「絶え間のなさ」が生の苦痛の本質であり、一切衆生の苦であるだろう。
世俗の欲求を捨て、些事に執着しないこと…そしてその全ての虚しさを知ること。それが「死を捨て去る」一歩であるだろう。


ものごとは心に基づき、心を主とし、心によって作り出される。もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足跡に車輪がついていくように。


何かでこんなものを読んだ。
「人は誰のことも結局幸福にも不幸にもしない。どんな言葉でも、その受け取り方によって幸福にも不幸にもなる。人は自分の心によって幸福にも不幸にもなっているのだ」
私は最近、特に「人は心である」と感じている。天国も地獄も遠い彼方にあるのではない。私の心の中にある。
「もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足跡に車輪がついていくように」
平易でこれ以上ないほど分かりやすい言葉だが、「何が私たちを苦しめ、救うのか」ということを顕らかにされているように思える。


学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するだろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。


学びというのは、必ずしも実利に結びつくものではない。だがそれは生きる力とはなってくれるだろう。それが真理と繋がる唯一のものともなるのだろう。
特別な言葉遣いはここにはない。だが胸を打つ。そして考える。
「学び」とはなんだろうか。「ことば」とはなんだろうか。そして「真理」とは?


もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ「愚者」だと言われる。


これはなんとなく、ソクラテス無知の知に相通じるものを感じる。自分の未熟さや愚かさを知ることは、賢くなることよりも大切なことなのではないか。自分が他よりも優れていると誇ることは虚しい。誰かを見下しても、生きることに寄り添う苦痛や虚しさは癒されないだろう。
私は愚かであることを知ること。
不思議とそこには癒しがある。そこから、ブッダの説く真理へと繋がる道は開けて来るように思える。

「孤独の科学」F.ルッソ

日経サイエンス」7月号より面白い論文を見つけたので要約して紹介したい。「孤独の科学」である。

孤独感がうつ状態や認知力の低下、心臓疾患、脳卒中など精神的身体的疾患につながる脆弱性と関連していることを示す証拠は近年増えている。ブリガムヤング大学の心理学者であるホルト・ランスタッドらによる研究によると、孤独感や社会的孤立は早期死亡のリスクに肥満よりも関連しているとされている。2017年時点での科学的証拠から彼は孤独感だけでなく、孤立や人間関係の乏しさなど社会的なつながりの不足は公衆衛生上の重大な懸念であると結論づけている。

人はどのくらい孤独なのだろうか。デューク大学とアリゾナ大学が2006年に発表した研究では、「親しい友人がいない」と答えたアメリカ人の数は1985年から2004年までに3倍も増えている。孤独は「社会から孤立しているとの認識及び他者から切り離される経験」と定義されている。こうした孤独感は状況が変われば気持ちも変わり得るが、研究者が「慢性的な孤独」と定義する人々は状況の変化に関係なく深い孤独を長期間にわたって感じ続ける。
キール大学の心理学者ローテンバーグによると、慢性的な孤独感を持つ人々は他の人に比べて社会情報の処理機能の問題、精神的問題、人間関係への不適応を示す可能性が高いことが複数の研究で示されていると指摘する。
またローテンバーグは「一部の人たちにとって孤独を感じるという心の動きは、特に不安にかられている時に非常に強い。長引けば心の健康が蝕まれることがある」と言う。

20世紀の半ばから、心理学者は孤独とうつ状態などの精神疾患は異なるものだと考えて孤独に着目したが、注目はされなかった。ドイツの精神分析医のライヒマンは1959年の論文で孤独は早すぎる離乳から生じるとの理論を打ち出した。1970年〜1980年代に孤独の研究は進展し、孤独感の主な原因はその人を受け入れる社会的ネットワークやコミュニティに溶け込んでいないからだと一部の研究者は仮説をたてた。つまり認知の在り方に注目したのである。

人は一生のうちに特定の時期に孤独の影響を受けやすくなることが分かってきている。特に孤独感が強いのが30歳以下の若者と60歳以上の高齢者である。例えば結婚や同棲は孤独感を防ぐことが分かっているが、こうしたものはまだ結婚しようと思っていない若者にはあまり影響はない。また配偶者との死別が当たり前になっている高齢者にとってもあまり重要ではなくなっている。
研究においては若年層の孤独感が重視されている。この年代の孤独感は生涯にわたって影響するからである。孤独な子どもはうつの青年や成人となるリスクが高いことが分かってきたからだ。孤独感が強い子どもの多くは社会的スキルに問題はない。孤独感を持って大学生も同様である。だが彼らは概して自分の振る舞いを過小評価している。孤独感が強い子どもや若者は社会的包摂や社会的排除を示す状況やイメージに他の人とは異なる反応を示すことが分かってきた。
また若者の孤独感の原因に関する研究には人への信頼感の低さに起因する、との見方もある。

孤独についての研究が進めば、特定の原因からくる孤独のリスクにさらされている人々を発見しやすくなるだろう。南デンマーク大学の心理学者ラスガードらが行った研究によると、少数民族、失業者、障がい者、長期の精神病患者、単身者といった人々がハイリスクグループとされている。
孤独な子どもは孤独な大人となる可能性が高い。若年のうちに孤独への介入が必要となるだろう。

「譲りたくないもの」改稿版

以前自分が書いていたエッセイを久し振りに読み返してみた。私は基本的に頭に浮かんだことを、特にオチもまとまりもなく好き勝手に書いていく。読んだ本の感想や、日常生活の中での気づき、そして小説や創作に関することなど…。今回読み返してみたのは小説に関するもので、ざっくり言えば「私が小説を書く上で譲ることのできないもの」を書き連ねたものだ。
改めて読み返してみても、特に自分の気持ちと変わったところはない。以下にそのまま載せた上で、気ままに加筆してみよう。

 

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正直、他人の評価を気にして自分の表現したいものを変える人の気持ちが分からない。また、評価や反応がないからといって諦めて辞める人の気持ちも分からない。
なにも、否定をしているのではない。ただ純粋に分からない。そもそも、その他大勢が求めるものと自分自身が表現したいものが重なることなんてそうないことだ。……だからこそ誰かの目を気にしてその嗜好に合わせたりするんだ!ということなのだろうけど。
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私はたとえどんなに拙い表現の仕方や切り取り方であっても、その人にしかできない表現やテーマというものがあると信じている。それは自分自身に対してもそうだ。
私には私自身にしか言えないことや書けないことが、必ずある。それを何故捻じ曲げてまで、誰かにおもねらなければならないのかが理解できない。
この点に関しては私は「傲慢」とも言えるプライドを持っている。むしろ、万人ウケし、易々と理解されてしまった方が「困る」と思っている。そして、誰かの評価や反応一つで呆気なく揺らいで挫折するほど「ヤワでつまらない」ものを、お前は表現したいと思ってるのか!とも思っている。これはほとんど怒りに近いものだ。
他の部分に関してはそう拘りはないが、こと「自分のやりたいこと/表現したいこと」に関してはかなり頑固だ。
巷で流行っているテーマやストーリーには興味がない。それを表現した方が、自分にとってメリット(ポイントとか、フォロワーだろうか?)があったとしても、そういうものに手を出そうとは全く思わない。
どうして他人と同じことをしなければならないのか、自分を曲げてまでやらなければならないか、本当に理解ができないからだ。画一的に均されるのは、もう学校教育の中で嫌というほどされたのだから、ものを作る時くらい自由気ままにやりたい。
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最近思うのが、人間というのは徹底的に孤独な存在でしかあり得ないということだ。これは哀しい思想でもあるけれど、この「孤独さ」というのが結構愛おしい。私たちは表面上は分かり合い、繋がっているように思えるけれど、所詮それも幸福な幻想にしか過ぎない。「私」を理解してくれる存在というのは結局のところ誰もいやしない。それは絶望に繋がるかというと、そうでもない。誰にも理解されないからこそ、私の内面というのは「徹底的に自由」であることも可能であるからだ。
よく、小説を書くこと (のみならず創作することは一般的に) 孤独な作業であると言われる。私にとって、そんなことは別に今更大きな顔で言われるようなことでもない。私たちの存在は根本的に孤独なのであり、その私たちのなすあらゆる行動が「孤独」であることなどは周知の事実だ。
誰かと交わらない、交わることのできない、徹底的に孤独な部分なしに文章を書くことは無理だろうと思う。
下品なたとえだが、私の小説を読んでくれる人によく「本当にオナニー小説だね」と言われる。つまり自己満足的で独りよがりということなのだけれど、それはその通りだと納得する。
読者のことなんて、基本的に考えない。記録をつけるためにここに投稿しているが、「反応があれば儲けもん」のスタイルでずっとやっている。
私が何を書きたいか、書けるかが最優先であり別に評価や反応が先に来るわけではない。
そういう意識は先述した「傲慢なプライド」に収斂されていく訳だが、自己表現とはそういうものだと思っている。
高尚なことはなにもない。ある意味、残酷なものだと、ふと思う。
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だから媚びたら終わりだし、それは自分で自分を殺すようなものだと思っている。
沢山の人が絵を描いたり、小説を書いたりしているが私はそういう人を見かけた時に、「この人にはこの人にしか表現できない世界があるんだろうなぁ」という思いで眺めている。
そこに他者の軸が横入りして、汲々とさせている/しているのを見つけると、残念な気持ちになる。
「あなたは何を表現したいの?」と面と向かって聞きたくなる。多数に是があり、人気のあるもの、売れるものが正しく面白いなんて誰が決めたのかと「ベストセラー」や「芥川賞」などを見ると思う。そういうものは、最も醜悪な価値観の一つだろうと私は常々思っている。
ゴッホゴーギャンが生前どんな扱いを受けたのか見れば、流行り廃りの薄っぺらさは自明である。
人はそんなに強くないんだよ!と言われればそれまでだが、私は自分の持っている視点やそれを切り取る文章を、簡単に揺るがせたくはない。
誰にだって、武器はあるのだから斬り込む意味はあると思っている。それがまだ「なまくら」だと思うのなら、人の倍勉強すれば良いだけだと思う。
私も日々勉強であると思っているし、自分に才能があるとも思ってない。ただ、表現したいものだけは誰かによって揺るがせたくないだけである。
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そして、こんなマイペースな私の書くものを読んで感想をくれる人達を大切にできれば望むものは何もない。
テーマを見つけること、とにかく勉強して文章を磨くこと、周りの人を大切にすること、これだけは絶対に誰にも譲りたくはない。

もしも言葉がなかったら、私達はどういう存在になっているのだろうか。言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。だが、語る者は、最終的には自分の非力さを告白する。
バタイユ「エロティシズム」
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たらたらと書いているが、私にとって大切なことは「誰に見られるか、何を言われるか」ではなく、「自分が何をどう書くか」でしかない。
ここで私は読み返しても、結構キツイことを書いているなぁと思う。

人はそんなに強くない。認められたいし、褒められたい。
それでもいいだろう。だがそれは、孤独を愛し耐えた上でなければ、多分実にはならず血肉にはならないだろう。
「私」という存在は弱い。それを乗り越えるために、癒すために、自己表現があるのなら、まずはその弱さを自分の目で見つめる必要があると思うのだ。
他者に尋ねるのは、それからでも遅くはない。ただでさえ、現代は孤独に対してうるさい。雑音が多過ぎる。表現する上において、最良の調味料はなんだろうか。
私にとっては「孤独」であり、このエッセイの中で挙げた諸々の「譲りたくないもの」たちのことである。

クラシック音楽と無二の感覚

私はクラシック音楽が好きだ。基本的にクラシックしか聴かない。理由は単純で楽器の音が好きなのと、訳のわからないチャラチャラした音楽を聴きたくないからというのに尽きる。
クラシックは聴いていて飽きない。クラシック好きといっても私の趣味は偏っている。
ヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルトくらいしか聴かない。バロック音楽から古典派までが特に好きで、ロマン派以降は全く興味がない。私は音楽において形式美がどうも好きなようでこの時代の音楽の中にある「型」が好きだ。ある種のストーリーが入り込んで来た時代以降の音楽は聴いていて「苦痛だな」と感じることさえある。
高校生の頃はベートーヴェンをよく聴いていたけれど、最近はあまり聴かない。自己主張が激しくて、交響曲なんかは続けて聴くと疲れてしまう。
さらっと聴けるモーツァルト交響曲くらいが今はちょうど良い。交響曲がまだ「機会音楽」であった時代と、そうでなくなった時代をここで感じたりする。ベートーヴェン交響曲は音楽でもあり、物語でもある。特に第九は巨大な物語だ。

どんどん本筋から逸れていってるので戻す。
youtubeでクラシックを漁っていて、改めてクラシックの面白さというか醍醐味は演奏家によって曲が全く変わるということだと思った。
最初に「フィガロの結婚」より序曲を聞き比べしていた。ウィーンフィルとマリス・ヤンソンスの演奏が気に入っていて聴き込んでいたけれど、今はゲオルク・ショルティ指揮、パリ国立管弦楽団の演奏が好きだ。ドタバタ喜劇の幕開けにふさわしい明朗さと、モーツァルト特有の流麗な音を淀むことなく表現していると思う。

その後はバッハばかり聴いていた。バッハでお気に入りの曲といえば、まず「ブランデンブルグ協奏曲」。ずっとトン・コープマンの演奏をきいていたけれど、こちらも最近はカール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ管弦楽団演奏のものが良いと思った。試しにカラヤン演奏のものも聴いてみたけれど特有のレガートが癇に障ってつまらなかった。カラヤンは良くも悪くも王道で外れはない。でも時折物足りないと思う時がある。
次に、「4台のピアノ(チェンバロ)のための協奏曲」。こちらはあまり演奏家の方は聴き込めていない。カール・リヒターはバッハ時代と同じようにチェンバロで演奏していたが、これが中々重い!こういう鬱々としてしかめっ面をしてそうなバッハもいいけれど、やはりピアノの情感のある演奏が好きだ。この曲はヴィヴァルディの「4つのヴァイオリンのための協奏曲」のメロディを拝借してあるが、弦楽器の方も良い。私は気分によってチェンバロかピアノかヴァイオリンか…と聴き回している。
他によく聴くのは「ヴァイオリン協奏曲第1番」「2つのヴァイオリンのための協奏曲」「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」。どれもバッハ作曲で、演奏はヒラリー・ハーンのものが今は好きだ。ややテンポが早く疾走するような音が良い。それなのに軽くない。鬱蒼としたバッハでそれがとても気に入っている。
私はバッハの宗教的なところ、鬱々とした屈折した、内省的なところが大好きだ。ハーンの演奏にはそういった部分を感じることができる。

当たり前のことだが、器楽曲には明確な意味を持った言葉や単語は出現しない。五線譜の上に連なった音の堆積のみで音楽を再現するのみだ。それでも、ふとした時に音楽の中から宗教的なものや内省的なものを感じる瞬間がある。私はまだ青いからバッハの音楽の中からしかそれを感じることはできないが、こういう感覚は無二のものであると最近思う。
だから私はクラシック音楽が好きなのだ。

美しきセオリー

「知のトップランナー 149人の美しいセオリー」
ジョン・ブロックマン
長谷川眞里子訳

本書は図書館で「学問・教養」の棚で見つけた。最近はこの棚を見るのが好きだ。教養とはなんだろうか?ソローは「記憶によってではなく、自らの思索に基づいたもののみが知識になる」というようなことを書いている。教養とは「生きていくための力」であると私は思う。それは記憶によるものでも、教科書を開くだけでも得られるものではない。ソローが言うように、やはり「自らの思索によって」得るものだと思う。
だが、その思索の原動力になるものは欠かせない。人と話すこと、本を読むこと、旅行すること、働くこと…などはこうした意味において大切なのではないか。
私はこの中で本を読むことで得られたものを、こうして纏めている。

「あなたのお気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何ですか?」

本書は様々な分野のトップランナーたちが、この鋭い質問に対して答えたものの集まりである。その中から、私が個人的に興味深かったものをまとめていきたい。そして、最後に私の「お気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明」を考えて書いてみようと思う。


1.馬鹿馬鹿しさの威力
スコット・アトラン(人類学者)
世界には超越的な力があり、こうした存在は本質的に知性を超えており、論理的経験的に反証することは不可能である…。こうした概念を、アトランは「私が知る限りで最も単純で、最もエレガントで、科学的には最も意味不明な現象である」と言う。
こうした現象を、ホッブズは「人間以外のどんな生物にも関係がない、人間だけの馬鹿馬鹿しさの特権」と言い、ダーウィンは「道徳性の徳」と名付けた。
他の生物と違い、人間は自分が属する集団を抽象的な言葉で定義する。大規模な人間の集団の形成にはパラドクスがある。宗教やイデオロギーに基づく文明が勃興すると、遺伝的には他人である人々が多く集まり国家や国境ができてくる。人間の最も強い社会的絆と行為は協力と許しの能力であるが、一方では相手を殺し、自分が殺されることを許容する能力をも含む。
人間はなぜ、道徳的動物となり得たのか?ダーウィンは私たちの祖先が肉体的に弱弱しかったので集団としての強さに頼らざるを得なかったということしか説明をしていない。
道徳に連なる宗教と聖なるもの、こうした主題は「私たちが何でありたいと思い、何でありたくないと思うのか」というものと近いがゆえに科学においてほとんど探求されて来なかった領域である。


2.集団の分極化
デヴィッド・G・マイヤーズ(心理学教授)
マイヤーズは「集団の相互作用は、人々の元々の傾向を増幅する」原理を、単純でエレガントな原理であると言う。こうした傾向、つまり集団がどちらかに極端に振れていく現象は繰り返し認められてきた。こうした身内精神によって身内が互いに自己隔離していくことはどこでも見られる。人々の移動が容易になるにつれ、保守的なコミュニティは保守派を、進歩的なコミュニティは進歩派をさらに引き付けるようになるのだ。
エレガントで社会的に重要な説明はいかにまとめられる。
「意見の分離+会話」が分極化を生み出すのである。


3.私たちの合理性の限界
マーザリン・バナジ(社会倫理学教授)
分析的、審美的に素晴らしいとされる説明は以下のような性質を共有している。

1.常識的に考えられていることよりも単純である。

2.問題の現象とは全く関係ないかのように見えるものを真の原因だと指摘している。

3.その説明を提出したのが自分だったら良かったのに、と思わせる。

人間の心を研究のテーマとすると、固有の限界にぶつかる。心は説明をしている主体であるが、同時に心は説明の対象でもあるからだ。自分の属する種や部族に対する思い入れから距離を置くこと、内省や直感から離れることは難しい。
こうした理由により、バナジは「合理性の限界」を「深遠で満足のいく説明」としている。
人間は間違いを犯すが、それは私たちに悪意があるのではなく、人が情報を学習して記憶する方法、人間が周囲の人間から影響されるやり方など人間の心の基礎がそうなっているからなのだ。人間の合理性に限界があるのは、私たちの存在する情報空間が人間の能力に比べて広すぎるからなのだ。人間の意識、意思に沿って行動を制御する能力には限界があるのだ。
悪い結果がもたらされるのは、情報を蓄積し、計算し、環境からの要求に適切に反応することができない「心の限界」にあるのだという考えは、人の能力や本性に対する全く異なる説明である。


4.性的対立の理論
デヴィッド・M・バス(心理学教授)
性的対立とは、個体としての雄と雌の間で繁殖の利益が異なる場合、彼らの遺伝子の利益が異なる場合に生じる。
例えば恋が成就して長期的な関係に入ったとしても、男女の進化的利益は異なる。不倫は女性にとっては自分の子供に優良な遺伝子を与える利益が見込めるが、彼女のパートナーにとってはライバルの子に資源を投資するというコストを負わせることになる。男性側の不倫では、貴重な資源をライバル女性とその子供に振り向けさせるリスクと、彼のコミットメントを失う危険性をはらむ。性的不誠実、感情的不誠実、資源的不誠実は性的対立のありふれた源泉である。
だが性的対立は性的協力の文脈で生じるものだ。性的な協力が進化する条件は、一夫一妻で不倫や裏切りの可能性がなく、カップルが子を作り、それが彼らの遺伝子を共有するものであり、所有する資源が差異をつけて分配されることがないというものである。こうした条件の中で愛と調和は可能になる。
性的対立の理論は、人間の性的な関係の暗部についての最も美しい説明を提供している。


5.生物学をくつがえす
パトリック・ベイトソン(動物行動学教授)
近親婚は、一腹の子の数の低下と精子の生存力の減少、発達障害、低出生体重、新生児高死亡率、短寿命、遺伝病の発現増大、免疫機能の低下をもたらし、繁殖力を低下させる。よって、近親婚は望まれないものであるが、最近ではこの議論は微妙なものになってきている。外婚は利益をもたらすものであると考えられているが、個体群の中に新たな有害遺伝子を持ち込むことにより有害遺伝子を排除したことによる利益を帳消しにする可能性も持っている。さらに、一つの環境に適応した集団は、他の環境に適応した個体と交配くると上手くいかなくなるかもしれない。
人々は自分が属する集団メンバーを守るためには、自分の命を投げ出すようなこともする。だが逆に、馴染みのないメンバーに対しては致死的な攻撃性を持つこともある。このことは、人種差別や不寛容に対して、一つの解決方を示しているのではないか。幼い頃から、異なる国や人々が互いをよりよく知り合うようになれば、お互い対してよりよく振る舞うようになるかもしれない。近親婚に見られるように、「馴染み深くなって」結婚することになれば、個体の数は減るかもしれないが、人口過剰の世界の中にあっては望ましいことかもしれない。こうした原理には近親婚と外婚との間にはバランスが生じる、という知識から生まれている。これは生物学をくつがえすことになるがベイトソンにとっては「美しいセオリー」であるようだ。


6.われらは星屑
ケヴィン・ケリー(『Wired』編集長)
私たちはどこから来たのだろうか?私たちは星の中で生まれたという説明は、深遠かつエレガントで美しい説明だ。その意味は、人体中の原子の大部分は、大昔に燃え尽きて消えた星たちの中でより小さな粒子が融合してできたというものだ。本質的に人間は核融合の副産物なのである。無数の原子が凝集して惑星となり、生命という奇妙な不均衡がそれらの原子を集めてできたのが人間なのだ。つまり、私たちはみんな星屑の寄せ集めということになる。
私たちは、実は星たちと極めて近い存在であるのだ。私たちが見るもの全ては星の中で生まれた。これほど美しいことが他にあるだろうか?


7.私のセオリー
さて、錚々たる「セオリー」の中で生煮えの私のセオリーをぶっこむのは気がひけるがやってみよう。

古今東西、洋の東西を問わず様々な賢人たちが様々なことを説いている。だが、彼らは一様に同じことを説いているのではないか。

私たちはなぜ生きるのか?
どう生きることができるのか?
そして、いかに生きるべきなのだろうか?

最初の問い、そして最終的に帰結していく問いはシンプルなものであると私は思う。これが私の思う「深遠で、エレガントで、美しい説明」である。説明とは問いであり、問いとは説明である。生への葛藤、そして必ず誰もが死に至るという運命が私たちを神話と宗教へと導き、哲学そしてあらゆる人文科学、自然科学への知見へと導いたのだ。
私たちは、徹底的に孤独な存在である。他の存在と、私という存在は徹底的に隔絶されている。

私たちは孤独で悲惨な存在である。だがそうであるがゆえに、「愛」はそうした私たちを救う一つの道となり得る。

シモーヌ・ヴェイユは言う。「愛は私たちの悲惨さのしるしである」。そして、「愛は慰めではない、光なのだ」。
キリストも説いた。仏陀も説いた。私には深遠過ぎてまだ追いつかない。だが、今は「愛」としか形容しえない原初的な思索の慈愛。私たちの本質的な孤独を癒すことができるのは、彼らが一様に説くこのセオリー、そしてそれを生み出したエネルギーは「愛」であったのだ。
彼らは一様に同じことを説いている。

私たちはなぜ生きるのか?
どう生きることができるのか?
そして、いかに生きるべきなのだろうか?

そして、自分よりも他の存在を慈しむことによって、私たちはこの問いに立ち向かうことができる。


素材としての愛によって、また愛から、生き生きした反省を手段として、すべてのものは造られた。造られたもののうち一つとして、愛に依らずして造られたものはない。愛は永遠に、我々の内において、また我々の周りにおいて、肉となる。そして我々の間に宿る。
フィヒテ「浄福なる生への導き」

魔術と宗教、そして人々

魔術の人類史
スーザン・グリーンウッド 超
田内志文 訳
東洋書林


私はオカルトが好きだ。心霊やら呪術の類いに心惹かれる。科学では説明のできない、人間の知性では追えないような領域を見るのが好きである。
そんな中で手に取ったのがスーザン・グリーンウッド著の「魔術の人類史」である。私がオカルト的なものに興味を惹かれるのは、「人々がなにを恐れ求めてきたのか」という片鱗が窺えるからだ。魔術とはなにか?呪術とはなにか?そして人の世とあちらの世を繋ぐシャーマンとはいかなる存在だったのか?
私の関心はこの辺りにあるので、2章以降で言及される魔女や魔女狩りの類については触れない。

1.魔術
本書において「魔術」とは、「宇宙を創り上げているものが持つ裡なる性質」を指す。森羅万象における霊的な部分を指す語である。ちなみにオカルトはラテン語の原義では「隠されたもの」という意味である。
だが「魔術」という言葉は、しばしば正統派の宗教において異端視したり禁じたものを指す侮蔑語として用いられているのが現状であり、ネガティヴな意味合いで受け取られがちである。

さて、こうした「魔術」がまだ身近であった時代…精霊などが日々の暮らしの一部として認識されそうした存在であった頃、魔術に代表されるような様々な儀式は集団と秩序をもたらし世界の中で繋がっていた。現代でもこうした日常世界と霊的次元が共存している例は見られる。だが一方でこうした霊的次元や精霊と繋がっていることは不安を生み出すことでもある。そうした社会の中にあって「精霊を操る技」は常に憶測や関心を生み出し、病や死、不幸などの問題とウィッチクラフトとが結びつけられてしまうことにもなる。
魔術の専従者は、日常世界と霊界、既知と未知との境界を探索し変容し、また移動させる。このような人々はシャーマン、妖術師、魔術師、魔女、呪医、呪い師などと呼ばれる。

またアニミズム的な世界観も魔術の一部である。アニミズムとは「存在するすべてのものは命である」との意識を持つ信仰である。19世紀の人類学者エドワード・タイラーはアニミズムを「霊的存在への信仰」と定義し、宗教の起源をここに求めた。「原始の人々は魂という概念の由来を夢見に求め、そこから宗教という発想が生まれた」。彼はこのように考えたのである。つまり、人の死後に魂が霊的存在へと変容していくことが、祖霊や精霊への信仰へと繋がっていったのではないだろうか。だがタイラーは「アニミズム多神教一神教よりも下位の宗教形態である」とも捉えていた。アニミズムから多神教、そして一神教への発展を自然の成り行きと考え、キリスト教をより高位の啓示宗教と定義したのである。


2.シャーマン
宗教史家のミルチア・エリアーデはシャーマンを「法悦的なトランス状態で旅する男女」と定義した。シャーマンとは、トランス状態や意識変容状態に入ることによって精霊と交信する専門技術を持つ者を指す。そして、かれらは人間界と霊界との調和を確実にすることを仕事としている。


3.魔術と宗教
現在過去を問わず多くの文化にはシヤーマニズム的な結びつきを持つ魔術的伝統がある。それは世界の主要な宗教の成立と共に絶えた民間伝承と同じように過去の遺物となっている場合もあれば、シベリアやインド、アフリカなどで見られる小規模社会においてその名残が認められる場合もある。またアメリカ先住民やオーストラリア先住民のように、ヨーロッパからの移民によって土地を奪われ迫害をされてきた先住民にとってはこうした「魔術」は不可欠なものであった。彼らにとって、宗教と魔術は明確に区別できるものではない。こうした背景から、魔術はヨーロッパ人たちの間では「未開の人々」のものとして結びつけられていく。
魔術と宗教は霊的次元と超自然的な力を崇拝する点においては似通っている。だが秘められた力の統御や行使において異なる。魔術は力の統御や行使を可能にするべく占術や呪文、アミュレットが作られる。

「魔術」の語源はギリシア語のmageiaである。これはmagoiの派生語でもあり、意味としては占星術や占術を研究するペルシアの神官階級を指す言葉であった。ヘレニズム期になると新語であるmageueinとmagikosがネガティヴな意味合いを帯びることになる。このような否認はローマ人によって確立された。役人や知識人たちが医術、占星術、宗教が混在する魔術の特質をあげつらったのである。
著者のグリーンウッドはこうした魔術の転落について以下のようにも書く。

「人間社会の黎明期においては、シャーマンこそが日常世界と霊的次元との媒介となる特別な役割を果たしており、同じコミュニティに属する他の人々は、そのプロセスに関わっているだけに過ぎなかった。だが、社会の規模が拡大し複雑になっていくにつれて、宗教の専従者が次第にシャーマンの役割を引き受けていくようになる。宗教家の領分はいっそう強固になり、やがて聖書やクルアーンといった宗教文書の解釈の支配が度を深めていった。こうして、自発的にトランス状態に入ったり、精霊の憑依を受けたりすることは異端行為と見なされるようになり、周辺的な異教へと貶められることになった」

多くの魔術や宗教は儀式に依存してきた。異界の存在や超自然的な力と交信するために中間地点となる空間を創出する必要があった。それを創出するための行為が儀式である。こうした儀式に人々は社会的結束や一体感を維持してきた。また共通の価値観や所属を定め、逸脱者の選り分けも行なっていた。宗教と魔術とのちがいとは、異質な霊的実践を認めるか否認するかによって決まっているのはないか、とグリーンウッドは述べる。魔術の要素はほぼ全ての宗教にあり、多くの宗教もまた何らかの形でシャーマン的行為に根を持っているといえる。