偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

あなたはどんな人ですか?

「女性同性愛者のライフヒストリー
矢島正見 編著
学文社

私は定期的に、セクシャルマイノリティーの勉強をしている。これには2つの理由がある。まず一つ目は、私自身がレズビアンであるということ、2つ目は性の在り方や多様性、そして学問上における議論や当事者の思いというのは実に様々でそういうものを定期的に「アップグレード」して自分の中に入れておかないと「ついていけない」からだ。
何に「ついていけない」のかは多分こうした微妙な部分に聡い人でないと中々分かってはもらえないだろうが、何かを変えること、訴えるためにはそういう一見「無駄に見える鋭敏さ」というのが不可欠なのだろうと私は思っている。そういうわけで、定期的にセクシャルマイノリティーやクィアスタディーズなんかの知見を勉強している。

さて、そんな中で見つけた本が今回取り上げる矢島正見著の「女性同性愛者のライフヒストリー」だ。これは随分前の刊行で、1999年に第1版目が刷られている。このことがどういう意味を持つのか、多分ほとんどの人には分からないと思う。
WHOが同性愛を精神疾患のリストから除外したのはわずかこの5年前の1994年で、当時の文部省が性不良から削除したのは翌年の1995年のことだ。未だ偏見の残る時代に、女性同性愛者(レズビアン)に、自らの生い立ちや性やセックスについて語ってもらい、そのライフヒストリー(口述個人史)を活字化するというのはかなり稀なことだったと感じた。

本書は14名のレズビアンの方たちが幼少期から現在までを自らの口で語り、赤裸々に過去の体験を明かしていく。当人たちの背景は実に様々でバラエティに富んでいる。どちらかといえば文系で、部活も体育会系か芸術系に二分されている。成績は比較的良い人たちが多く、あまり女の子らしい趣味というのに幼少期から興味を持つ傾向が少ない、というような一致点は散見されるが特に「レズビアンになる」ような土壌や素養らしきものは見当たらない。別にレズビアンは「なる」ものでもないから当たり前なのだけれど。何かの本で「私は10年かけてレズビアンになった」という発言を見て奇妙な感覚になったものだ。別に「なる」ものでもない。かといって、そのように「生まれつく」わけでもないし、気がついたら自然とそうなっていた、というのが一番近いかもしれない。つまり、意識的になろうとするものではないということだろうか。
少し脇に逸れたが、もう一点興味深かったのは自分がレズビアンであると意識した時やそのきっかけに触れた文化的なツールだ。こちらは多くの人が1990年に発刊された「別冊宝島 『女を愛する女たちの物語』」を挙げ、自分以外にも同じような人たちが大勢いると慰められたというような声が多くあった。書籍というのに時代を感じる。これが今の時代に全く同じものを編んだとしたら、インターネットという答えが9割になりそうで面白い。

ただ、ひと言に女性同性愛者/レズビアンといっても当人たちの自分に対する受け止めや定義というのは様々で、明確に自分を「レズビアンです」と言い切る方もいれば「レズビアンとは言えない。バイセクシュアルかも」や、「そもそも自分のことを女性としては思えない、かといって男になりたいわけでもない…」というような方もいてタイトルの女性同性愛者にとどまらない部分も散見される。
こうした点について、私は大いに結構だと思っている。ライフヒストリーの終盤で必ず「自分は何者か?」というような項が入るのだが、私は疑問を感じた。なぜ異性愛者は自らの在り方、特にセクシュアリティという微妙な部分について規定する(させられる)ことがないのに、同性愛者などのセクシャルマイノリティーは厳格に規定や定義できなければならない、というような風潮があるのだろうかと感じた。

「あなたはどんな人ですか?」

性別やセクシャリティを問わず、こうした問いに明朗にそして自分はこうであると断言できる人はいるだろうか。中にはいるかもしれない。だがその答えというのは往々にして変化していくものだ。むしろ変化していかなければおかしい類のものでもあるだろう。それなのに、セクシャリティの在り方は生まれた時から一貫していなければおかしいかのような扱いを受けている。
「私女だけど、女が好き。でもレズビアンじゃない」
こういう在り方があってもいいじゃない、と私は思うわけだ。

全体としては非常に面白く、また一般人の個人史というのを見る機会もそうないから他人の人生をちょっと「覗く」ようでそういう好奇心も刺激された。私が印象に残ったのは、バイセクシュアルの女性のライフヒストリーで、彼女は以前付き合っていた外国人男性からHIVを移されていた。彼女はこの点について、「外国人と付き合ったから」ではなく「コンドームを付けなかったから」というところを強調している。そして、以下のように率直に語るのだ。

「これからは、恋愛に対して臆病になると思います。というのも、実は私はねHIVに感染しているからです。だから、どうしてもこれからは相手が男であろうと女であろうと、本気の人でないと付き合えないわけです。……そういう人が現れたら、もちろん幸せなことかもしれませんが、できれば現れて欲しくないと思っています。そんなお互いにゾッコンになる相手が現れてしまったら、これからもっと辛くなるので、たとえ性的には欲求不満になったとしても、いっそのこと、そういう人はいらない、というのがいま現在の心境です」

そして追記で彼女は過去の自分のライフヒストリーを振り返りつつ、自らの甘さを笑う。だが最後に印象的な言葉を残すのだ。

「私は、幸せな人間だとは思いませんが、幸せな患者です」

すでにこの時(1998年)には、免疫力が健常者の6分の1程度にまでなっていたが「ゴキブリ並の生命力」に当人も驚き、「当分くたばりそうにない」、「だてに高い薬は飲んでいない」と語る。生きていく上で年々HIVの恐ろしさは感じると語っているが、「自分の蒔いた種」であることを受け止め、「苦しみを飲み込んでいる」と終始飾ることのない調子であった。


私が本書を読みながら思ったのは、ここに書いてあるような様々な設問から端を発したであろう語りというのは、結局本エッセイのタイトルにもあるように、「あなたはどんな人ですか?」というようなものであるということだ。
性の在り方を多様でいい、昨今だとダイバーシティだのと格好良く言うことは簡単だ。今は本書が刊行されて約20年ほどが経ち、性教育の中でも同性愛が取り上げられるまでになっている。私たちは口では個人の自由な在り方(セクシャリティも含めて)を認め奨励しつつも、社会制度の上では男女と生殖に結びついた強固な性意識と異性愛の基盤の上に立っている。
このことの意味はなんだろうか。
そしてその土壌に立った上で、「あなたはどんな人ですか?」との問いかけはどんな意味を持つのか、そしてどう答えることができるのか。
本書の中で、「レズビアンは自分の個性の単なる一つ」と述べる女性が出てくる。

「『レズビアンである』ということは、自分の個性の一つに過ぎないと思っています。『楽器が好き』とな『寿司が好き』とかいうことと、『レズビアンである』ということとは、基本的に同列の事柄だと思っています。ただ、『楽器が好き』という個性よりも『レズビアン』という個性の方が、アピールするのが難しいと思います」

なにがこの個性のアピール、というか在り方を難しくさせているのか。
それがなくなったときには、恐らく「レズビアン」という単語も過去の古い単語の一つとして意識されるようになるのではないだろうか。

ヨーロッパにおける人文学

「人文学(人文科学)」とは、人類が創造した文化を広く対象とする学問である。今日では一般に社会科学や自然科学とされ哲学、文学、歴史学など大学の教養課程や文学部などで教授される学問となっている。よって、人文学は抽象性を帯びている学問と一般に受け止められている。それ故に人文学は社会にとって役立たないもの、また社会科学や自然科学とは対置される性格のものと考えられている。日本ではこうした理解のために、人文学系の学部や学科に対する圧迫にも繋がっている。

一方、人文学の発祥の地であるヨーロッパでは、日本で今日理解されているような単純なものではないことが明らかとなる。人文学を社会科学、自然科学と峻別するような姿勢や、教養知、実用知と区別する傾向も古くからあったものではない。ころらは近現代の所産である。
例えば哲学は、人文学の一分野にとどまらず、自然科学を含む全ての学問の上に立つものであった。こうした人文学の起源は古代ギリシャまで遡るを古代ギリシャ文明の中で哲学、歴史、文学、美術、数学などの諸分野で創造されそれらの英知が、その後のヨーロッパ文明の知的基礎を作ったのだ。古代ギリシャの文化的遺産はローマ帝国を経てヨーロッパ中世世界やビザンティン帝国に引き継がれ、その後のルネサンス運動によってヨーロッパ全土において復興されていく。また中世ヨーロッパのキリスト教世界において「大学」が誕生したが、それまで神学研究や聖職者養成に重点を置いていたが、ルネサンス以降に人文学的研究と教育に重点を置くように変化していった。近代ヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマに関する学問はキリスト教の影響が薄れるのと並行して、「古典学」として特に19世紀以降発展していく。

古代ローマ社会にあっても、古代ギリシャ以来の修辞学を核とする人文学的教養が受容され、特に帝国を統治するエリートたちに必須のものとされていた。また近代ヨーロッパ社会にあっては古代ギリシャ・ローマはそれ自体としては現実の生活に直接役立つものではなくなっていったが、「余分の学問」を学者以外で学ぶことができる人々は社会の中でも豊かな人々に限られていた。さらに、古代ギリシャ語とラテン語の習得を中心とする古典学が、大学前の中等教育段階での主要科目となったため19世紀に入ると、ヨーロッパの先進的な国々では古典学の素養を持つ人物が社会的なエリートとみなされるようになった。
古典学は、人文学の代表的な学問である。また古典学は、社会階層を区分する規範となるような機能を持たせる傾向が歴史の中で培われていく。実際に社会において優位に立つことができる社会的擬似身分的規範としての機能をヨーロッパでは古典学は持つようになった。このように、人文学は単なる机上の学問としてのみヨーロッパの中で存在してきたわけではないのであった。


a.後期ローマ帝国における教養
史家のサミュエル・ディルは西ローマ帝国最期の世紀を「才能と教養がこれ以上高い見返りを得た時代はほとんどなかった」と評した。後期ローマ帝国においては、官僚の任用に際して「教養」が大変高く評価された。当時の官僚志望者には修辞学の習得に最高の目標を置くローマの伝統的な文学的・文法的教育と、人文学的教養が要求された。逆にいえば身分に関わらず官僚という帝国の支配者層に入り込むことができたことを意味してもいる。「ギリシア・ローマ風の教育と教養は、地方都市の貴族だけでなく、生まれの卑しい者にも成功へのパスポート」となっていた。
同時代の官僚で「皇帝史」を書いたアウレリウス・ウィクトルに、後期ローマ帝国における教養の限界を見ることができる。彼は皇帝の絶対性を信じており、教養を持った皇帝の出現で帝国は理想的な状態に変わり得るとの信念を抱いていた。こうした考えは、あくまで帝国を導くのは皇帝であり、教養を持った官僚や教養そのとのではないことも同時に示している。教養は皇帝という絶対者と結びつくことによってのみ、大きな力を及ぼすことが可能になるのだ。ここに、後期ローマ帝国及び官僚のメンタリティが反映されているのだ。そして、教養の効用と限界も露わになるのである。


b.近世フランス、実業家と教養
18世紀のフランスは前世紀までの不況を脱し、資本主義世界経済における中核地域を形成するに至った。こうした経済の発展は近世フランスの実務教育へと道を開くことになる。職業訓練学校というような、充実した組織の発展を促したのである。実務教育の前例としては17世紀にすでにプロテスタント系の学校で見ることもできるが、全国的に展開し国家プロジェクトとしても進行するのな18世紀のことである。
一方、18世紀後半に商人の中でもコレージュ(大学の下にある中等教育機関に相当するもの)を出て教養を身につけ、「文芸共和国」の仲間入りをしようとする人も現れた。ここでいう商人とは、国際貿易商人であり、貴族や聖職者とは異なる社会エリートである。ここからは、商人社会における人文学、教養について概観してみる。
まず商人社会の初等教育及び教育の中心は実務教育である。1673年の商事王令編纂にも関わったサヴァリは商人の実務教育について、子どもが15歳になるまでに自分の能力に自信を持つ教育を施さなければならず、7歳から8歳までの間に手習いと算術を学ばせるよう勧めている。また語学(イタリア語、スペイン語、ドイツ語)の習得も強調し、フランス史や外国史、旅行記などの書物を読ませることも説いている。一方で、この他に役立たない学問は身につける必要はないとも書いている。
さて、こうした商人たちの教育に人文学的な教養は不必要なものだったのだろうか。伝統的な商人の教育モデルは実務教育であり、ラテン語や修辞学など本格的な人文学教育は不必要であった。ただ商人は自らの社会的な地位上昇も視野に入れ、その戦略の一環として人文学的教養を身につけるべく子どもたちをコレージュへと送り込むことになっていく。ここでは道具としての人文学教養を見ることができる。
こうして教養を身につけた人々は、自ら懸賞論文を提出するなど学問の世界に関心を示すようになっていった。1783年にミュゼ・ド・ボルドーが創設される。これはジュモーの呼びかけの元に創設されたが、彼は当時のボルドー社会において商人の重要性について認識しており、創設当初より彼らを取り込むことを考えていた。ミュゼにおける講義の特徴は会員に対しては無料で行われ、親は子どもに受けさせる講義をミュゼが提供するものの中から選択することができた。ミュゼにおける教育は、フランス語、外国語、数学、物理、化学であり、外国語と自然科学の教育に重点が置かれた。自然科学の分野では機械工学や天文学、造船術、航海術などが開講されていた。ミュゼにら附属図書館も設置され一般にも公開されていたが所蔵図書のうちおよそ4割が文学作品であり、3割が自然科学に関するものであった。実践を重視していることは明らかであった。またミュゼの教育の特徴として、演劇や音楽の授業が行われていた点を挙げることができる。ミュゼは商人社会の要望を反映し実践的内容を重視しつつも、音楽や芸術など教養に属するものにも力を入れていたのである。
商人たちはミュゼの教壇に立つことはなかったが、様々な役職を担った。だが注目すべき点は、文化的な活動を積極的に行ったということである。詩や小説、コンサートや演劇などの催し物にも率先して参加した。一方で彼らは自らの生業については多くを語ろうとはせず、そうした世界からは距離を置き、芸術や学問の世界を楽しむことを望んでいた。18世紀の富裕な商人たちは伝統的な教育モデルから少し逸脱した教養を身につけ、知識人たちが集う世界へと足を踏み入れたのである。
1793年にミュゼはアカデミーと共に廃止されたが、ミュゼそのものは1808年にソシエテ・フィロマンティック(科学協会)として再建される。そうした変化の中で商人社会は緩やかに国民教育のなかに統合されていく。
ソシエテ・フィロマンティックはミュゼを引き継いだが、あくまで商業一般に関する専門教育機関であり、かつてのミュゼのような文学や自然科学の世界と実務知の融合といった独特の商人文化はなかった。19世紀後半になると、教育の変化と共に、そのような世界は消滅していくのであった。


c.近代ドイツ、啓蒙主義と人文学
19世紀はドイツにとって、「歴史の世紀」といわれている。エルンスト・トレルチュは「我々の認識及び思考が根本的に歴史化した」と表現した。彼は歴史主義を歴史学固有の問題であるだけでなく、文化現象一般に及ぶ問題と理解した。ここで問題となる人文学知も歴史化したことになる。こうした問題意識を共有し「歴史主義の克服」を目指して争われた議論を歴史主義論争の名で知られている。またハルトヴィヒは叙述の対象でしかなかった歴史が研究の対象及び学問的考察の対象として認知される過程を「歴史の科学化」と呼び、その出発点を啓蒙主義時代に見ている。
哲学者のヴィルヘルム・ディルタイは1901年の論稿冒頭で、「歴史の科学化」の経緯について以下のように要約している。
「非歴史的と批判されることもある18世紀の啓蒙主義は、歴史に対する新しい理解を提示した…いまや初めて普遍史は経験的考察そのものから得られる一つの連関を保持するに至った。この連関はすべてのできごとを理由と帰結に従って結合する点において合理的であり、所与の現実を彼岸的な表象によって越え出ることすべてを拒否する点で批判的に優れていた。…人間生活のうちにある連関についての、経験に基づいたこのような新しい理解がはじめて、自然認識と歴史の学問的結合を可能にした」
引用の「普遍史」は、キリスト教独自の救済史を指している。神の天地創造で始まり、この世の救済をもって完結する目的論的な歴史叙述である。だが時代の経過とともに、救済史のモチーフは形骸化していく。宗教的な合理性は生活領域から後退し、科学的な合理性に取って代わられていったのだ。19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれたが、同時に「科学の世紀」とも呼ばれている。啓蒙期には、合理性の主導権が転換していったのだ。科学的な合理性は特定の現象を生起した因果関係を現世的に説明することを目指す。社会現象や文化現象をその対象とする時、原因究明は過去に遡り、歴史認識を得ることを余儀無くさせる。こうして、文化的社会的な諸科学において歴史の考察が不可欠になったのだ。前近代の学問体系の中では学問であるとみなされていなかった歴史が、学問の一分野として認知されていく。歴史の科学化は科学化の歴史化とも表裏をなしていったのである。前近代の歴史は非学問的、雑学的な教養として放置され続けてきたが、それは歴史が1回限りの特殊な知識と考えられてきたからである。だが、「歴史の世紀」を迎えて歴史学は「思考する頭脳すべてのためのもの」となったのである。
科学的合理性が浸透し始めた時代には、現状を構成する要因の解明に、今後起こりうる時代の予見を期待し、それに対する対策を示すこと、そして明晰な判断の提供が科学に期待された。歴史学においては、文化・社会現象の領域においてそれが期待された。啓蒙期に歴史研究が盛んになったのは社会に有益な知識をもたらすと考えられたからである。社会貢献という観点から、歴史学は意義づけられたのである。
啓蒙主義は歴史に対する新しい理解を提示した。歴史学は学問の確固たる一分野であるだけでなく、学問的考察に欠くことのできない分野となったのである。


d.東スラブ正教世界、人文学の受容と葛藤
オスカー・ハレツキはヨーロッパ精神の根本的な2つの要素として、「キリスト教的伝統と人文主義」を挙げ、またクシシトス・ポミアンも「人文主義文化は15世紀から19世紀にかけてヨーロッパのエリートの共有財産になった」と述べた。
ポーランドルネサンス宗教改革を経たヨーロッパを象徴する人文主義をいち早く受け入れ、高度な教育システム及び政治文化を形成するのに成功した。一方で、ルネサンス人文主義などの知的伝統を共有しなかった東スラブ(ロシア、ウクライナベラルーシの諸民族)はいかに、こうした「ヨーロッパ的なもの」と向かい合ったのであろうか。
ルネサンス人文主義は、科学革命など知の体系の組み替えを進め、普遍的な大学教育を頂点とした高度な学校システムを発達させた。だが東スラブの正教世界で形成された知的態度は、ビザンティンの静寂主義の伝統を汲んだ修道を理想化する正教的精神生活では、永遠に変わらない「静寂と安寧」を希求し「すべからく書物を読む必要などないし、書物全体を読む必要もない。選りすぐりの厳格に限定された範囲のテクストによって己れを癒すことが必要である」というのが基本的態度であった。こうした中にあって、学校教育も未発達であり、宗教及び精神生活や世俗生活上どうしても必要とされる知識習得は外来書や翻訳による読書での自己陶冶を通じて行われた。書物や学問に対して猜疑的で、ラテン語による学識を宗教的異端と同一視する心性、ラテン文化(人文主義)への拒絶など、独自の知的態度を生み出していた。
17世紀はロシアにとって1つの転換点であった。ロシアの西欧化は18世紀初頭のピョートル大帝の諸改革から始まるが、既に17世紀を通じてヨーロッパ文化との関係を深めていた。アントニー・フロロフスキーはこの点について、端的に述べている。
「17世紀末の数十年間と18世紀初頭とは、精神生活領域における特殊性をことごとく有する西欧文化世界とのロシアの接触の問題が、ロシア文化発展の基本的構成要素の1つとなった時代であった。独自性と正教信仰を遵守してきたモスクワ・ルーシ従来の障害物が倒壊し、ロシア人が西欧の光と文化をそのあらゆる現れに渡って知るだけでなく、それらの特質・特徴を知覚し習得するための幅広い可能性と展望が開かれた」
ピョートル大帝による科学知・技術知導入にとどまらず、精神世界及び宗教世界にまで及んでいたことを指摘しているのである。こうした原動力になったのはウクライナ人文主義者(キエフ学者)であった。だが非合理的なモスクワを軽蔑するキエフ教養主義と、カトリック的なラテン文化に侵されたウクライナ人文主義者に不信感を抱くモスクワとの対立は根深かった。こうした軋轢を持ちながらも、ウクライナ人文主義者たちはラテン文化…ヨーロッパ知的体系とロシアの媒介する役割を担った。
こうしてもたらされたラテン文化は、ロシアの西欧化にとって大きな影響を与えたが、それがロシアの政治文化を支えるエリートの地位を正当化する教養や文化資本として機能するほど定着したかどうかは別問題である。ピョートル教会改革以降、ラテン語が必須化され聖職者身分にラテン的知識の最低限の習得が義務付けられた。一方で、貴族身分の場合はラテン的趣味の書物収集や文芸趣味に財や能力を費やすものは僅かであった。「人文主義は、外国人や西部国境地域の新しい臣民たちの崇拝物であって、他方ラテン教育に対する文人社会の拒絶は継続的で広く見られたものであった」。こうしたことは、ロシアにおける近代市民社会形成の弱さに通底するものとも言えるのではないだろうか。

ラ・ボエシ「自発的隷従論」

図書館の帰りに、書店に寄ってなんとなくふらついていると面白そうな本を見つけた。エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著の「自発的隷従論」だ。不勉強な私は初めてその名前と著書を知ったが、ちくま学芸文庫から出ていることもあり買って読んでみることにした。素朴な問いから、人間の本性、政治のあるべき姿…客観的かと言われれば疑問符はつくが興味深い良書であった。古今東西の逸話や史実に、圧政や圧政者の構造的悪に迫っていく様は、硬い論文というよりも、一つの文学作品としても読むことができる。


なぜ多数の人々は、たった一人の圧政者に隷従するのだろうか?「自発的隷従論」の中で、ラ・ボエシは「これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧政者を耐え忍ぶなどということがあり得るのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである」と書いている。その疑問を出発点に、本書は考察を進めていく。

ラ・ボエシは「自由」こそが人間の本性であると説く。「自由は自然であるということになるし、同様に、私の考えでは、われわれは生まれながらにして自由を保持しているばかりでなく、自由を保護する熱情をも持っているのである」。
このことに対する根拠として、ラ・ボエシは動物でさえ自由を求めて抵抗すること、自然が人間全員を同じ形に作ったこと、の2点を挙げている。この2点目について、なぜ「自由」という命題が導き出されるのか。自然が同じ形に作ることによって、私たちがお互いを愛するように仕向けたのである。だがこのことは各人が平等な能力を持つことを意味しない。そして、それ故に自然は人間相互の扶助や連帯の必要性を高めたのである。人間は外見上の相似性と、個別的な差異故に、仲間となれるのだ。よって、人間の原初的な自然状態においては、他者を隷従させる欲望な発生し得ず、各人は自由であるのだ。

だが、なぜこうした「自由」の本性を放棄してまで、人々は隷従してしまうのか。この問いが、本書の中でラ・ボエシの繰り返し問う命題である。
隷従している状態とは、自由を自ら放棄するほど本性を歪められているといえよう。自発的隷従とは、「自然がそんなものを作った覚えはないと言い、言葉が名付けるのを拒むような悪徳」であるのだ。
そして、ラ・ボエシな人間の本性 (自然)を二重に解釈しようも試みている。つまり、人間の本性とは「習慣」ではないのか、と問いているのである。習慣づけられるという性質こそが人間の本性の一部なのではないか。「人間においては、教育と習慣によって身につくあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものといえば、元のまま本性が命じるわずかなことしかないのだ」。ここでラ・ボエシは「自発的隷従の第一の原因は、習慣である」とし、人々が隷従するのは、「人間が自発的に隷従する理由の第一は生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているから」であると指摘する。どのような隷従も、自発的な隷従以外はあり得ないのだ。
ラ・ボエシに独自なのは「生まれつき」の状態においてすら、「習慣」の影響下にあり、そのような環境を本性と取り違えるということを喝破しているところである。
人間は、本性と区別できないほどに一体化した習慣によって、隷従の悲惨さを認識できないまでに目を曇らされている。

人間は、自然状態においては同胞に対する友愛の念によって、互いの自由を尊重するものである。だが支配者は、その地位につくとこのような善や自由を喪失する。民衆が隷従を自然状態と取り違えるように、圧政者は自らの横暴を生得的な権限のように錯覚する。
だが支配は、圧政者の及ぼす力によってのみ成立するものではない。「その者の力は人々が自ら与えている力に他ならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない」。
ラ・ボエシによると、圧政を中断させるのに暴力的な抵抗は必要ない。圧政者は民衆が何も与えないことによって自壊する。「もう隷従はしないと決意せよをするとあなた方は自由の身だ。敵をつき飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、自らの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう」。
ここにあるように、ラ・ボエシが勧めるのはあくまでも不服従という消極的抵抗である。だがこうしたことが簡単ではないことも、ラ・ボエシは分かっていた。支配は主体と客体の二項からなるのではない。被支配者でありなかまら、支配者でもある存在、甘い汁を吸う存在が圧政を維持する機能を果たしているのである。これをラ・ボエシは「小圧政者」と呼ぶ。「結局のところ、圧政から利益を得ているであろう者が、自由を心地よく感じる者と、ほとんど同じ数だけ存在するようになる」。このように階層化された中間層は体制の変革ではなく、むしろ強化を望むのだ。故に、一者による支配体制は、ときに盤石の安定性を獲得する場合がある。

だが、ラ・ボエシは圧政者とその共謀者たちの悲惨な末路を様々な古典や史実から暴いていく。「ローマの皇帝の中には護衛のおかげで危険を脱した者よりも、自ら従える弓兵に殺された者の方が多いのは明らか」であり、「ほとんどの圧政者は大抵、彼らの最も気に入った連中によって殺された」のだ。またその共謀者たちも、幸福ではない。

こうした圧政者や共謀者が不幸なのは、彼らの間に「友愛」が成立しないからだ。ラ・ボエシによると、友愛とは善人同士の間によってしか成立しえない。そして、互いに対等な者同士の信頼関係の上にしか成立しないものだ。「圧政者は決して愛されることも、愛することもない」のである。「圧政者は全ての人の上位にあり、仲間が全くいないので、すでにして友愛の領域の外にいるからだ。友愛は平等の中にしか真の居場所を見出さない。友愛は片足を引きずるのを好まず、常に左右の均衡を保つ」からだ。
ラ・ボエシは最も重要な徳を「友愛」とし、成員同士を結びつける絆とみなしている。「友愛とは神聖な名であり、聖なるもの」であるのだ。

ラ・ボエシが想定する君主と臣民の正しい関係とは、「隷従」のような極端な形態ではない上下関係、忠義や敬意を伴う服従関係である。例えば、幼年時の両親との関係や、優れた知恵と高潔な人格を示した人物との関係がそうである。ラ・ボエシは特や勲功に対する敬意と感謝それ自体は、「理性にかなった態度」であるとラ・ボエシは書いている。双方向性によって、君主と臣民の関係は結ばれるべきなのだ。
君主は臣民によって支えられ、臣民は君主の善政によって平和と安全を享受する。臣民の自由を君主が侵害し始めたら、服従を止めればよいのだ。ただ、君主と臣民のいずらもが、一定の権利を享受すると同時に、一定の義務も負うのである。ラ・ボエシのいう「公正さ」は、社会的役割に応じた他者への奉仕であり、これを可能にするのが「友愛」である。
「徳を愛し、勲功を敬い、善とそれが生じた原因に感謝し、ときには自分の安楽を犠牲にして、敬愛する相手、敬愛に値する相手の名誉や利益を高めるのに努めること」こそが「友愛という公共の義務」なのである。

だが、ラ・ボエシは圧政者もまた同じ人間であることを喝破する。「そんな風にあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、からだは一つしかない」。
ラ・ボエシの生きた時代は、絶対王政全盛の時代である。だが政治をあくまでも対等な人間同士の関係として構想してみせた。その先見性は現代になっても色褪せることがない。

シモーヌ・ヴェイユを読んで

本との出会いは、人との出会いに似ているようなところがある。連休最終日に図書館へ行って、いつものようになんとなく哲学の書棚を巡っているとシモーヌ・ヴェイユを見つけた。以前より読者の方から名前を聞き、勧められてもいたので「これは!」と思って手に取って借りた。そしてその後書店にも行ったのだが、そこでもヴェイユの「恩寵と重力」を見つけ、これも購入して早速読んだ。
正直、今の私にヴェイユの広大な思想や愛を理解できているとは思わない。
私は最近、あらゆる思索や活動のエネルギーというのはなんだろうか…と考えていて、それは「愛」なのではないだろうか。私たちが「愛」と呼ぶもの、そうとした名付け得ないものなのではないかと私はぼんやり思っている。
端的にLoveと表現できるものでも厳密には愛情と表現でいるものでもない、原初的なエネルギーである。
「愛は慰めではない。光である」というのはヴェイユの言葉だ。その後で彼女は「愛は、私たちの悲惨のしるしである」とも書いている。
私はここに、「愛」なるものの広大さそして捉えがたさを垣間見た気がする。

私たちは生きているが、その生は矛盾と虚飾に満ちている。それは「悲惨」である。
古今東西、様々な人が様々なことを説いているが「重力と恩寵」を読んだ後に少し考えてみた。そうすると、ある仮説が私の中に頭をもたげてきた。

「彼らは一様に同じことを説いている」

最初の問いに、1.なぜ私たちは生きるのか、があった。その次の問いに、2.いかに生きることができるのか、があった。そして最後に、3.いかに生きるべきなのか、という問いが結ばれた。
「なぜ」から、「できるのか」そして、「べきなのか」への帰結に至る。異論はあろうが、どんな哲学者も文学も核となる思索は根本的には同じものであると考えている。そこでは宗教と、哲学は厳密には分け隔てられていないとも思う。
ヴェイユの思索と言葉も、どこか宗教的な色彩を帯びている。

「裁いてはいけない。あやまちはすべてが同等なのだ。ただひとつのあやまりだけしかないのだ。すなわち、光を受けて生い育つという能力を持たぬこと。この能力が失われたからこそ、あらゆるあやまちが出てくるのだ」

裁いてはいけない、というのは聖書の言葉だ。
生きること、生き続けることもある意味一つの信仰の形を取る、取らざるを得ない…と考えてみる。私は不思議でならない。人が神という存在を求めるのか、愛を求めてやまないのか。だが今ならその理由が少しだけ分かる。
この世界には、明瞭には意識も知覚もできないが「大いなる流れ」がある。人知を超えたもの、老子が説いた「タオ」のようなもの、キリストが「神の愛」と説いたもの、ヴェイユが「恩寵」と読んだものが存在するのだ。
哲学者はそれを「真理」だと説いた。これらはすべて、私は本質的には同一のものであるとヴェイユを読み終わって感じたところだ。

生きるということと、この彼らが一様に説いていることは深く結びついている。
さて、私たちは「なぜ生き、どう生きることができ、いかに生きるべきなのか」。宗教と哲学に限らず、あらゆる思索や人間の活動はここに端を発していると思う。ヴェイユは簡潔でありながらも、本質を突くような言葉の数々を残している。

「恩寵でないものはすべて捨て去ること。しかも、恩寵を望まないこと」

「創造は、愛のわざであり、永遠に続くものである。あらゆる瞬間において、私たちが存在するということは、神の私たちに対する愛である」

「どんな愛情にもとらわれてはいけない。孤独を守ろう」

余分なものは捨てよ、そして求めることはしてはならない。求めた瞬間から、恩寵は恩寵ではなくなる。
存在することは、愛による。
シンプルなこの言葉の意味を、まだ私は正しく理解できているとは思えない。それだけ私は「恩寵以外のものを持ち」その上、「恩寵を望んで」いるからだろう。虚ろになるということは、全てを無くすことではない。空虚になるということでもない。そのことを、まだ私は本当の意味では知らない。
「孤独を守ろう」、力強い言葉である。人は孤独を憎む。特に現代ではその傾向が特に強い。見かけは孤独を癒す術はより簡単に得られるようになったように思える。こうしてなにがしかの作品を挙げれば、感想がつくかもしれない。そのことによって、私は束の間孤独でなくなるかもしれない。はたまたTwitterでも呟けばもっと癒されるかもしれない。LINEでもいい、メールでもいい、電話でもなんでも、闇を炎の灯りで削ってきたように、私たちは孤独を削る。
でもそこに何がある?その先に何がある?
私は最近こんなことを考えている。こうした一連の動き、自分の内部と外部の動きに虚しさや、何かが削り取られていくような感覚を感じている。削られているのは、また自分の手で削っているものはなんだろうか。

それは「孤独」であり、本質的な「愛」としか今は呼べないものなのではないだろうか。
だから、疲れる。虚しくなる。
だが私はヴェイユを読んで嬉しくなった。私たちは個として隔絶されている。この中にある孤独は徹底的なもので癒されることは死の瞬間までないだろうと思う。だから、生きることは辛く苦しい。
だがこうした宿命的な孤独と矛盾を抱えた私たちに対して、「彼らは一様に説いている」。
その発見が私は嬉しかった。生きていて良かったと思う瞬間は、私にとってはこういう瞬間だ。

余計なことはこれ以上書くべきでない。

 

参考・引用:「重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ 田辺保訳 ちくま学芸文庫

愛は慰めではない。光である。

創造は、愛のわざであり、永遠に続くものである。あらゆる瞬間において、私たちが存在するということは、神の私たちに対する愛である。

愛は、私たちの悲惨のしるしである。

どんな愛情にもとらわれてはいけない。孤独を守ろう。

奴隷の状況とは、永遠から差し込む光もなく、詩もなく、宗教もない労働である。