偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

フロイト:夢について

前科学的な時代には、夢に対して説明するのに窮することはなかった。目覚めた後に思い出される夢は、より高次の神的な力による恵深いお告げか呪わしい徴しかのどちらかであるとみなされていたからである。だがこうした神話は自然科学的思考法の発達により、夢が当人自身によって作られた心的な産物であることを疑う人はごく少数になっている。夢に対する神話的仮説が棄却されると、夢には説明が必要となった。夢の発生条件や夢と覚醒時の心と生活の関係などは今日に至るまで満足な解決を与えられていない。
その中でも強い関心を引いてきたのは夢の意義についての問いである。夢の心的意義、夢には何か生物学的機能があるのかといった問いがあり、そもそも夢は解釈可能なものなのか、また個々の夢内容には意味があるのかといった問いがある。
夢に対する一般大衆の見方は、思い出された夢内容を、何らかの決まった合鍵を用いて一つ一つ順に別の内容に置き換えていくか、夢全体をそれと何らかの象徴の関係にある何か別の全体に置き換えるかのどちらかになる。

フロイト自身はこのような一般大衆の見方に、医師による夢の捉え方よりも真相を突いているのではないのかと主張する。
夢の内容は一貫性がなくばらばらで、大抵は意味不明で荒唐無稽な現れをすることが多い。だが、それらばらばらになっている要素から浮かび上がる連想をたどることによって、心の生活の重要な産物であろう思考や思い出に行き当たることができるのだ。夢とは、情緒豊かで意味に富んだ思考に対する代替物なのではないだろうか?こうした思考がどのようなプロセスを経て夢となっていくのかは不明であるが、夢を心的には全く意義を持たないものとするのは誤りであるだろう。
またここに2点付け加えると、夢内容は思考の代替物とはみなせるものの、それらの思考よりも短く仕立て上げられている。そして、夢見る前の晩の些細な出来事が夢の誘因として働いている。
自分の覚えている夢を顕在的夢内容お呼び、分析によって見出される関連の素材を潜在的夢内容と呼ぶ。こうして分けることによって、顕在化していなかった問題が浮かび上がってくる。第一に潜在的夢内容を顕在的夢内容へと移行させたプロセスとはどのようなものであるのか、ということである。第二に、この種の翻訳作業が求められた動機とな何かという問題である。そして、この過程を夢工作とフロイトは名付ける。

潜在的夢内容と顕在的夢内容の関係という観点から見ると、夢は3つのカテゴリーに分けることができる。
第一のカテゴリーは、有意味であり、理解可能な夢である。第二のカテゴリーはそれなりに意味はあるものの心の生活に相応しい場を与えることができないもので奇異な感じを抱かせる夢である。第三のカテゴリーは、意味もなく理解もできないため、脈絡がなく混乱しナンセンスに思える夢である。私たちの夢の多くはこの第三のカテゴリーにあるような性格を持っている。それゆえ夢はこれまで軽んじられ、夢は心の活動が抑えられた結果であるとする医学論文がはびこることにもなったのだ。
夢が理解不能で混乱した性格を持っていることと、夢思考を報告することの難しさとの間には密接で規則的な繋がりがある。
幼児の夢のグループでは、夢は欲望を既に成就されたものとして見せ、実際にそれが起こっているものとして上演する。よって、主な夢の素材は大抵視覚像から成っている。だがこれは幼児の夢のみに限ったことではない。つまり、願望の形をとった思考が直接的で現在的具像的表現に置き換えられているのである。

混乱した夢の場合においても、これと同じようなことが言えるのではないか。夢内容の一つ一つは諸々の素材によって重層決定されている。だがそれらの要素には一貫した繋がりはない。こうした異質な夢の素材に対して、夢の要素は夢内容においてその代わりを務めている。ひとつの夢思考は、ひとつ以上の夢要素によって代わりをされているということである。連想の糸は夢思考から夢内容へと単線的に収斂していくのではなく、途上で幾重にも交差しもつれあっているのである。
また夢工作がなされていく過程で、夢の素材がしかるべき思考や表象から離れて、別の思考や表象へとシフトしていくことがある。こうした現象ほど、夢の意味やその繋がりを分かりにくくするものはない。この出来事を夢遷移と呼ぶ。これはまた心的価値の価値転換とも言い換えることができる。

夢の内容に潜む夢思考を見つけ出せなかったり、理解できなかったりするのはひとえにこの夢遷移作業に帰することができる。だがこうした歪曲がなぜ起こるのかは不明である。
分析を通して知られる夢思考は錯綜した心的コンプレックスであることが多い。この心的コンプレックスのひとつひとつの部分は互いに多様な論理的関係にある。ひとつの思考の流れに、ほとんどがそれと正反対の流れになっている。
夢はこうした素材を縮小し、細切れにし、ひとつの表象に統合しようとする。また夢内容が朦朧としたものになるのには何らかの因果関係があると考えるべきだろう。夢思考が抑圧状態、意識化不能状態に置かれているのは、禁じられた夢思考を漏らさないようにするためだと結論せざるをえなくなる。意識できないようにしていたのである。これらは夢歪曲、つまり偽装し隠蔽しようとする意図が働いているのである。

夢は多くの場合欲望を表すものであるが、この欲望成就に対する関係によって3つに分けることができる。
第一は、抑圧されていない欲望を覆いのない形で上演するものであり、大人になると稀になる幼児タイプの夢である。第二は抑圧された欲望を覆われた形で表現する夢である。圧倒的多数の夢がこれに属する。その理解のためには分析が必要となる。第三は、抑圧された欲望を上演する夢であるが、覆いがないものである。この夢には中断の不安が伴っており、一度ははっきりとした欲望ではあるものの、後に抑圧されるものである。
さて、夢歪曲の主たる動機は検閲にある。禁じられた夢思考を意識させないためにこうした働きが起こるのである。こうした観点から、大人の見るほとんどの夢は分析してみると性愛的欲望に帰着する。幼児性欲の存在は既に知られている。私たちは何らかの点で今もなお幼児期の性生活の形態を保持している。そして、そのように抑圧された幼児期の性欲望こそが夢を形成するための最も頻繁で強力な原動力となっているのである。
夢工作や遷移のための素材を提供しているこうした無意識的思考は、夢の領域を超えて広がっている。これは無意識的思考の持つ、ひとつの特性ではないだろうか。

第3篇:思春期の形態変化

思春期の到来とともに、幼児期の性生活を最終的な正常形態へと移行させる変化が始まる。性欲動はこれまで自体性愛的であったのが、性対象を見出していくのである。性欲動はこれまで一つ一つの欲動や性源域から性活動を行なっていた。これらは互いに関係を結ばず、一つの性目標を快として求めていた。
だが思春期の性活動では、すべての部分が欲動とともに作用しあい、性源域は性器領域の優位の元に置かれることになる。そして、新しい性目標が置かれることになる。この性目標は、男性と女性にそれぞれの性に対して異なった機能をあてがうものであり、両方の性の発達は別の方向へと大きく分かれていく。
男性の発達は女性の場合に比べて守備一貫したものであるが、女性の発達は退化のようなものさえ生じる。性生活の正常性は、性対象へ向かうものと性目標へ向かうものという情愛的な流れと、官能的な流れという二つの流れが正常に重なり合うことによってのみ保証されるのだ。
それ以前の性目標は快の獲得にあるが、新しい性目標もこれとは無縁ではない。むしろ快の最高の状態は性的過程の最終目的と結びつくのである。性欲動はここで初めて生殖機能に役立つものとなれる。つまり、利他的なものとなるのである。
こういった新しい変化及び秩序の形成が途中で停止することによって、病的状態が生み出される機会が生じるのは妥当なことである。そして、性生活に関する病的障害はすべて発達の制止であるとみなすこともできるのだ。

思春期の本質として、最も目立つものは外性器の顕著な発育である。翻って幼児期の潜伏期は、外性器の相対的な発育制止によって示されていた。
この器官(性器)は刺激によって働き始める。そして刺激は三通りの仕方で働きかける。
第一には、性源的領域の興奮を通じて外界から来るものである。第二に、身体の内部から来るもの、「心の生活」つまり心的な部分から来るものである。これについては研究をさらに進めていく必要がある。第三に、外的印象の保管場所であり、内的興奮を受け入れる「心の生活」から来る通路である。
これら3つの通路すべてを通じて同一の状態が呼び起こされる。これは性的興奮と名付けられる。
性源域が満足する際に、快感も発生するが同時に性的緊張も生じる。だがこの性的緊張がどこから来るのか、その本質とは何かについては全くわからないままである。

性生活の心的現れを扱いやすくするための補助表象として、フロイトは「リビード」という概念を規定した。リビードによって性的興奮の領域で生じる過程や変換を測定できるようになるだろう。リビードは、特殊な起源を持つことになるので、他の心の過程一般の基礎を成しているエネルギーから区別する。ここには、一つの仮定が設定される。つまり、生体における性的過程はある特殊な化学的機構によって栄養の過程とは異なっている、というものである。性的興奮は、性器部分のみからもたらされるのではなく身体のあらゆる部分から作り出されるのだ。よって、この心的代表を「自我リビード」と名付ける。だが、この自我リビードを分析研究することが可能になるのは、このリビードが性対象への備給のために心的に利用された時だけなのだ。自我リビードが対象リビードになった時に観察される、ということだけである。
またこの対象リビードは、その対象から撤退してしまうとこれは特別な緊張状態の中で保持される。最終的には自我の中に連れ戻されて自我リビードになっていくのだが、これを対象リビードと対比して「ナルシス的リビード」とも呼ぶ。
自我リビード及びナルシス的リビードは、貯蔵タンクのようなものである。ここから対象備給のためのリビードが送り出されたり、回収されたりするのである。このようなリビード備給は、幼児期の始めの頃に実現されていた原初的状態である。こういった状態はリビードが外部に向けて送り出されるようになると覆い隠されるに過ぎない。根本的にはこのようなリビードの背後に在り続けるのである。

第2篇:幼児性欲

性の欲動に関する通俗的な意見に、幼児期には性の欲動は欠けていて思春期になって初めて目覚めるもの、という主張がある。これは単純な間違いであるだけでなく、性生活の基本的事情についての私たちの無知もこの間違いに由来するものである。

新生児は、性欲の萌芽を既に携えて生まれてくる。その性欲とは、しばらくの間はそのまま発達するのだが、次第に強くなる抑圧に屈するようになる。この抑圧そのものも、性的発達という発達の規則にかなった力により中絶されたり、個人の特異性によってはねられることもある。こうした二極性及び法則性、周期性に関しては確かなことはまだ知られていない。だが幼児の性生活は2歳、3歳となると観察可能な形として表されるようになるだろう。

幼児性欲の現れには様々あるが、まずは「おしゃぶり」を取り上げる。おしゃぶりについてはハンガリーの小児科医リントナーが優れた研究を行っている。おしゃぶりや舐めることは乳幼児の時期に始まり成熟期まで続くが、一生に渡って続くことがある。これは口を使って吸いながらリズミカルな反復を行う接触を指す。吸い心地の良さは対象に向けた関心を食い尽くし、眠りに至るか、一種のオルガスムスへと至る場合がある。リントナー自身はおしゃぶりという行為を性的なものであるとはっきりと認めている。

だがこの性的活動(おしゃぶり)は欲動が他人には向けられていないことに、大きな特徴がある。フロイトはこれを、「自体性愛的な欲動」と名付けた。口唇による性的活動の大元は母親の乳房を吸う行為にある。それは子どもの活動の最初のものであり、生命を維持するために重要なものである。子どもはこうした経験を通しておしゃぶりに慣れ親しむのである。
ここで口唇は、性源域のような振る舞いをしているといえる。
口唇領域での性源的な意味合いが消えずに残ると、大人になってキスを好んだり男性であれば飲酒や喫煙へと走る理由になったりもする。一方で、抑圧が働いた場合は食べることへの嫌悪、ヒステリー性の嘔吐を起こしたりする。口唇領域という共通性があるため、接触欲動にまで及ぶのだ。
おしゃぶりという行為から、幼児性欲の本質的特徴が3つ確認することができる。幼児性欲の現れは、第一に生命を維持する上で重要な身体機能の一つに依託しながら生じる。第二に、まだ性的対象を知らず自体性愛的である。第三に性目標は性源域の支配下にあるということだ。

幼児期の欲動が目指す性目標は、本質的に様々な経緯で選ばれた性源域にふさわしい刺激を与えて満足を呼び起こす点に特徴がある。こうした欲求は、あらかじめ体験されたものから行われる。
口唇領域とはまた別に、性欲とは別の身体機能に依託させるのに適している領域は肛門である。この領域が持つ性源域的な意味は非常に大きい。子供が肛門領域における性源上の刺激を利用していることは、肛門の粘膜に強い刺激を与えるようになるまで排便を我慢している、という事実から理解できる。それは苦痛とともに官能的快楽も生じさせているのではあるまいか。

子供の身体の性源域の中には、将来重要なものとなるべく定められている箇所がある。それは排尿と関連づけられている領域である。(亀頭と陰核がこれに当たる)
男子ではこの性源域は早い時期から排尿時の刺激によって、性的興奮が生じ刺激に欠くことはない。実際の性器の一部である性源域の性的活動こそは「正常な性生活」の始まりとなる。

幼児期の性生活の特徴として、本質的に自体性愛的なものであり、部分欲動なそれぞれお互いに結びつきを持っておらず、それぞれが独立したままである。そして快を得ることを目標とした追求を行う。この発達の最終形態は、大人の性生活であるが、快を得ることが生殖という機能のために有利に働くようになり、部分欲動は自分以外の対象を性対象として性目標を達成させるためにたった一つの性源域の元で堅固な編成を作りあげていく。
性器領域がまだ主流を占めていない性生活の編成を「性器期前の編成」とフロイトは名付ける。こうした性器期前の編成として、最初のものは口唇的編成(食人的編成)と呼ぶ。次の性器期前の編成は、サディズム肛門的な編成と呼ぶ。ここでは性生活全体を貫くことになる対立せいがすでに形成されている。だがまだ男性性-女性性と名付けられるような対立にはなっておらず、能動的-受動的と呼ばれるようなものである。

子供の性的興奮の源泉について概観すると、それは未だに謎深いものである。だが性的興奮が働き始めるためには、そのための手段が多く用意されているだろう。そして、刺激を感受するための器官も同じように用意されている。

だがここである推測へとたどり着くことができる。他の機能から性欲へと通じているような連絡路は全て逆方向に辿ることもできるのだ。例えば食べ物を摂取する際に性的満足も生じるという理由が、共通して口唇領域にあるという点に求められるとすればここに存在する性源的機能が障害されるとき摂食の障害が生じることを理解する助けにもなる。これまで説明のできなかった作用も、性的興奮が生み出される所の様々な影響の反対物に過ぎないとすれば、それほど不可解なものとはならなくなるだろう。
また性欲の障害がそれ以外の身体機能にまで飛び火して行くのならば、同じように性欲が性的なものではないまた別の目標へと向かっていることもあり得るだろう。つまり、性欲の昇華が起こっているということだ。このような通路は確実に存在しており、両方向的に往来可能なものであろう。
だがこういった通路に関して、確実なことはまだほとんど解明されていないのである。

フロイト「性理論のための3篇」第1篇:性的異常

このところ心理学へ興味が出てきて、フロイトをちまちまと読んでいる。心理学に限らず、ある学問上の概念が社会に浸透していく過程において本来の定義や意味が極端に単純化・一般化され誤解されたまま理解されていることは多い。心理学とは、見えない心の領域、無意識の領域を扱うがゆえに時にセンセーショナルな扱いを受けてきた。フロイトによる性倒錯の理論は歴史的に大きな影響を与えた。科学による正常と異常の定義は社会的に大きな動揺を与え、同時に不安定な時代背景にあってスケープゴートとしての「性倒錯者」「異常者」を作り上げていくのに寄与もし、利用された。
同性愛はその事例の一つであるが、皮肉なことにフロイトその人は、同性愛を始めとする性倒錯者、異常性愛に対しては最も理解が深く、強く擁護もした。
そうした彼の理論を改めて辿りたい。


生物学では人間や動物に性の欲求があることを、「性欲動」というものを想定することによって表現する。これは食べ物の摂取欲動である空腹に従うものであるが、私たちが普段話す言葉の中にはこれに対応するものが欠落している。よって、学問的にはそれに対応するものとして「リビード」を用いるのだ。
性欲動の性質と特徴については、通俗的には「性欲動は子供の頃は存在せず、思春期の成熟の過程と関わりながら発現し、一方の性が他方の性に対して抵抗し難い魅力という現象として現れる。そして、性欲動の目的とは、性交へ至る途上の行為である」とされる。
だが、このような説明は必ずしも現実を写し取れてはいないだろう。こうした説明には多くの間違いや不正確な内容、性急な判断が含まれている。フロイトはここで、2つの用語を導入する。性的魅力を発する人物を「性対象」とし、欲動が向かう先の行為を「性目標」と名付けるのだ。


1.性対象に関する逸脱
男ではなく、女が性対象の女たちがいる。こういった人々のことを「反対性愛者(コントレールゼクスアーレ)」とも呼ぶが、「対象倒錯者(インヴェルティールテ)」と名付ける方が良い、とフロイトはする。またこうした現実(いわゆる同性愛)を、「対象倒錯」という。このような倒錯を持つ人々はかなりいるが、正確な数を割り出すのは困難である。

A.対象倒錯
a.絶対的倒錯者:性対象が同性のみに限られるもの。異性は憧れの対象にはならずに、むしろ性的な嫌悪感を呼び起こす。

b.両性的対象倒錯者(精神-性的両性具有者):性対象が同性でもあり、異性でもあるもの。この対象倒錯者には排他性という特徴はない。

c.機会的性倒錯者:特定の外的条件、正常な性対象が手に届かないことや、性行為を模倣することなどの条件のもとで同性を性対象とし、その性行為で満足するもの。

対象倒錯の特徴が当事者に現れてくるのが昔からの場合もあれば、思春期に入る前か後であるか、特定の時期にようやく気づかれるという場合もある。こうした特徴は一生続く場合もあれば、時折目立たなくなることもある。正常な性対象と性倒錯的な性対象との間を周期的に動揺することも観察される。特に興味深いのは正常な性対象となんらかの辛い経験があってから、対象倒錯者という意味でリビードが変化する場合である。

対象倒錯の最初の評価は、神経質症の変質の先天的なサインである、という理解であった。神経を病んだ患者及びそのような印象を与えるような人々を観察する中で、性倒錯に遭遇していたという事実から導かれたものである。こうした特徴づけの中には、それぞれ独立して判断するべき先天性と、変質が含まれている。この変質という言葉は非難に値する。原因が見当たらない症状を有する病気は全て変質であるとすることが習慣になってしまっているのだ。以下に挙げるものは変質という言葉を用いない方が理にかなっていよう。

1.正常規範からの重大な逸脱がいくつも同時には生じていない場合。

2.生活能力及び生存能力が大体においてひどく損なわれているようには見えない場合。

性倒錯者がこのような意味では変質者とは言えない事実は以下に挙げられる。

1.性倒錯はそれ以外には正常規範からの重大な逸脱がない人々において見出されること。

2.性倒錯者は、生活能力が障害されていないどころか、特別に高い知的能力の発達及び道徳的な文化教養という点で優れている人々において見出されること。

こうした点を踏まえ、フロイトは性倒錯を以下のように理解している。

「性倒錯は文化的高みにあった古代民族において重要な機能を担う、ほとんど制度的とも言えるありふれた現象であったことに価値が置かれなければならない」

次に先天性について見ていく。先天性とは、性倒錯者の分類の最初の群、最も極端な群に属する人々にだけ主張された要因である。こうした主張は、性欲動がその人生を通じてそれ以外の方向を取ることがなかった、という性倒錯者たちについての確認に基づいている。だが先述したように、性倒錯者の群は特に機会的性倒錯者の例に見られるように、この先天性の特徴とは合致しない。
先天性の主張とは反対に、性倒錯は後天的に獲得された特徴であるとするものもある。
つまり、「絶対的性倒錯者を含む多くの対象性倒錯者においては人生の早い時期に作用を及ぼしているなんらかの性的印象のあることが証明でき、その結果として同性愛的傾向が生じる」のである。
様々な異論はあるものの、同じような性的働きかけを受けながらも、対象倒錯に陥ることもない多くの人々がいる。こうした事実によって、対象倒錯が先天的なのか、後天的なのかといった二者択一では不十分であるだろう。
よって、対象倒錯の本質とは、先天的なものと仮定しても、後天的なものと仮定したとしても説明のつかないものなのである。先天的であると仮定する場合は、性倒錯の何が先天的かをはっきりとしなければならない。後天的であると仮定した場合は、様々な偶然的な影響だけで対象倒錯になることを説明できるかが問われる。この後天性という要因を否定することは、これまでのところできないだろう。

対象性倒錯者の性対象が正常な性対象と相反するものであることは、当然の前提となっている。男の対象性倒錯者は、女性と同じように男性の肉体的特徴や心の特徴から発する魅力に弱く、自らを女であると感じて男を求めるのである。これが当てはまる対象倒錯者は多いが、対象倒錯の特徴を言い当てているわけではない。男の対象倒錯者の多くは男性としての心的特徴が保たれており、反対の性(女性)の第二次性別特徴を備えていることは比較的まれだ。
女の対象倒錯者は男性的特徴が身体と心の両方において備わっていることが高い頻度で見られる。そして、性対象からは女性的なものを要求する。ただ詳細に調べれば多彩な違いが見出せることだろう。

対象倒錯者においては、性目標を纏った形で述べることは難しい。男性対象倒錯者の場合でも、女性対象倒錯者の場合でもその性目標は肛門性交から口唇愛撫、感情のみであったりと多彩である。

ここまで考察を進めて、満足できる説明ができたとはいえない。だが1つの洞察にたどり着くことはできたかもしれない。私たちの注意を引いたのは、性欲動と性対象の結びつきをこれまでにもあまりに緊密なものとして考えすぎたということである。正常な状態では性欲動と性対象が画一的な状態になっているため、欲動が対象を伴っているように見えてしまうのである。ここで、思考する際に欲動と対象との結びつきを緩めるように教えられるのだ。性欲動は、初めのうちは恐らく対象とは無関係なものなのだ。よって、性欲動の発生も恐らく対象からの刺激によるものではないだろう。


2.性目標に関する逸脱
正常な性目標とは、性交によって生殖器同士を結合させることである。
目標倒錯は、以下のものとして挙げられる。

a.性的結合のために決められている身体領域から解剖学上はみ出してしまうこと。

b.最終的な性目標へ至る途上、性対象に対する中間段階的な関係のうちに逗留してしまうこと。

性対象は性欲動の欲望目標であるが、その心的価値評価が生殖器だけに限定されることは起こりえない。
口腔や肛門の利用などは、対象倒錯者に限ったことではない。またフェティシズムと呼ばれるものも性目標の逸脱として見ることができる。
こうした様々な逸脱について、改めて性欲動の知識に付け加えるようなことは何もない。単に性欲動はあの手この手で性対象を自分のものにしようとしているだけなのだ。

正常な性目標に手が届くことを困難にしたり、遠ざけたりするような条件のどれもが、準備段階にある行為をそのままの状態に留まらせようとする。そこから、新しい性目標が生み出されて正常な性目標と置き換わるのである。

目標倒錯は数々の「部分欲動」に還元することができる。さらにこれらは、一次的なものではなく、細かく分類することができる。欲動とは連続して流れている内身体的な刺激の心理的代理に他ならないのである。よって、外部からやってくる興奮によってもたらされる刺激とは異なるものである。欲動とは、心というものを身体的なものから区別する境界づけの概念の1つのであると理解できる。
欲動学説には、身体の諸器官から化学的な性質の違いに基づく2種類の興奮が生み出されているという想定がある。そのうちの1つを特殊性的な興奮と呼び、それを生み出す器官のことをその場所から生じる性的部分欲動の「性源域」と呼ぶ。口腔や肛門に性的意味を持たせようとする目標倒錯の際には性源域の役割を理解するのは簡単である。それは生殖器と同じように振る舞うのである。性源域は、生殖器に準ずる副次的器官であるのだ。

目標倒錯へと至る素質は特に珍しいものではない。むしろ、正常と考えられている体質の一部を形作っているのではないか。目標倒錯が生得的条件に基づくものなのか、偶然の体験から生じたものなのかという問題にはまだ決着はついていない。
フロイトはここで、その解決を呈示しようと試みる。
目標倒錯は、生得的なものが根本にあるが、それはあらゆる人間に共通する生得的なものであって、素質としてはその強度に強弱の差があるかもしれず、生活の影響による強化を持つだろう。問題なのは、性欲動の生得的な根っこの部分なのである。多くのケースの中で、この根っこは性的活動の担い手へと発達し、神経症の群では不十分な押さえ込みによって病的な症状を呈するようにもなる。そして、こうした極端な2つのケースの間のバランスを取って正常な性生活が成立してくるのである。

私の痛み、誰かの痛み

「カミングアウト・レターズ」
RYOJI+砂川秀樹
太郎次郎社エディタス

人は誰だって、自分の見ているもの、見えているもの、見ることのできるものを全てだと思う。その視野から零れ落ちたものは「異端」や「異常」なものとして認識され、切り捨てられる。
例えば男は女を好きになること、女は男を好きになること…体の性と心の性は生まれつき一致していること、異性同士で家庭を持つこと。
これが長い間恐らく人々の目に「見ていた、見えていた、見ることのできる」ものだっただろう。
私は「カミングアウト・レターズ」を文芸サークル会誌での書評欄で取り上げるということで読んだ。本書はゲイやレズビアンの子どもたちが親や先生に自らのセクシャリティをカミングアウトした手紙を集めたものである。読んでみると、これが結構良いことを書いている。市井の人々の方が、明敏に社会の矛盾や欺瞞を見抜いている。
以下は私が読んでいて、気に入った箇所である。


「ただ結婚して子を生し、家庭生活を営んでいるというだけの理由で、そのかけがえのなさを感謝するだけでなくて、なんだか偉そうにしてしまう。人ってそういう愚かで傲慢な部分があるでしょう。でも皆んな与えられた生の意味を必死に生きてるだけ。それを忘れると、心が貧しくなる」


「皆んな与えられた生の意味を必死に生きてるだけ。それを忘れると、心が貧しくなる」
セクシャルマイノリティーやLGBTと仰々しく言う必要はここではない。ただ「必死に生きてるだけ」。
私はレズビアンであるけれども、こうした捉え方は好きだ。男や女、日本人やゲイ、レズビアン…といった無数のラベルを剥がしてみれば後に残るのは「人間」であるということのみだ。そこから私たちはなんと遠く複雑なところまで来たのだろうかと思う。
私は今の社会が想定する「普通」の人間ではないだろう。幸せになるためのハードルはもしかすると高いかもしれない。


「少数派であることを実感する社会の中で生きて、痛みを忘れないでいたい」


これはゲイの男性が母親へ宛てた手紙の一節である。
確かに、今の社会で生きていくことは痛みを伴うことだ。私の痛みと誰かの痛みに聡くあること。
マジョリティ、マイノリティ問わずこの明敏さを持たない人々が最も不幸であるだろう。

 

資本主義とゲイ・アイデンティティ

最近、私の中での主要テーマの一つは「セクシュアリティ」であると感じている。それは生きることの一側面である。ゲイのみでもレズビアンのみでも、もちろんヘテロセクシュアルのみで人は生きるのではない。(ふふ、聖書の中でもキリストは言っていた。人はパンのみで生きるのではない)
人の生(性)を包括的に捉えるために、セクシュアリティは存在している。だがこの「セクシュアリティ」とは社会の中においてどのような存在なのだろう。その輪郭は容易には捉えがたい。
この点について、やはりセクシュアリティとは個人的なことであると同時に社会的なもの政治的なものでもあると蒙を開かれたものがあったので、ざっとまとめて紹介したい。
表題にある通り、「資本主義とゲイ・アイデンティティ」についてである。


ジョン・デミリオは「資本主義とゲイ・アイデンティティ」の中で、18世紀以来の産業資本主義の発展とゲイ・アイデンティティについて、以下の論点を提示している。
1.家族構造と機能
2.家族生活のイデオロギー
3.異性愛関係の意味の変化
これら3つの論点が資本の拡大と賃労働の出現がいかに変化させてきたのかを述べている。

「ゲイ男性とレズビアンは歴史によって作り出されたものであり、そして特定の歴史的時期に存在し始めたのだ。ゲイ男性とレズビアンの歴史的登場は資本主義的関係と結びついている。つまり、20世紀後半において、多くの女たちや男たちに自分たちをレズビアン/ゲイと呼び、自分たちに似た女や男たちからなるコミュニティの一員だと自覚し、同性愛というアイデンティティを基礎に置いた政治的組織化を行うことを可能にしたのは、資本主義と歴史的発達、より特定していえばその自由労働者システムである」

「賃労働が拡がり生産が社会化されたことによって、性が生殖への『義務』から自由になることが可能になった。家庭から経済的独立性を奪い、生殖と性との分離を促進することにより、資本主義は一部の男たちや女たちが同性への性愛的/情緒的関心を元に個人生活を作り上げていくことを可能にする諸条件を創出した。このことは都市部でのレズビアン/ゲイ・コミュニティの形成を、そしてより近年のものとしては、性的アイデンティティを基盤とした政治行動を可能にしたのである」

デミリオは資本主義がゲイやレズビアンアイデンティティの原因であるとは言っていない。だが、資本主義と自由労働の拡大は一つの契機となったのである。こうした文脈において、ゲイやレズビアンアイデンティティは歴史的条件によって、歴史的に生み出されたとしたのだ。

そもそも資本主義とは基本的には差異を生み出し、その差異に基づいて様々な集団及び階級を敵対、対抗させる。その結果劣位に位置付けられた集団から利益を得るようなシステムであると考えられている。そしてそうしたシステムは家父長制というもう一つのシステムとも共謀し、男性を公的領域、女性を私的領域に配置しそれぞれに有償労働と無償労働という差異化された労働形態を強制もした。そのような資本主義体制の拡大において、異性愛体制の元、異性愛者から差異化され、一つのアイデンティティとして生み出されたことは必然的なものと理解できる。

だが資本主義体制下において、同性愛者が異性愛家族の生活から離れて自ら生計を営む自由は確かに可能になったのだが、それはあくまで自らのセクシュアリティを隠しておく場合にのみ限られたことであった。公表すること、つまりカミングアウトすることによって職業上の隔離や差別によって経済的状況が悪化することもあったのである。多くの性的少数者が自分のセクシュアリティをオープンにすることと、経済的な安定性との間で選択を強いられていたのである。資本主義は一方では非異性愛者のアイデンティティの出現を可能にしているが、他方ではそうした人々の経済的物質的基盤の獲得と安定を阻むような存在としても機能しているのである。
クイア・アイデンティティの出現はこのような資本主義の発展と関連づけられている。19世紀には賃金労働が支配的となり、それまで生産単位として機能していた家族は家計経済の負担から解放されていく。こうした変化の中にあって、家族は「個人生活」と「消費」の中心となっていくのである。セクシュアリティに関していえば、家計を支える労働力としての子どもを持つことに重要性が置かれなくなっていくことで、セクシュアリティは生殖からも分離されていく。それは完全に分離されたわけではないが、家族は個人のアイデンティティ形成にとっては重要な基盤ではなくなったのである。
だがこのような変化、具体的には家族の解体及び生活の基盤となる共同体における社会的紐帯が弱体化していくことに対する不安が人々の間で募っていく。このような時に、ある種のセクシュアリティが病理化され、それに対処する学問として性科学ーが誕生したのだ。
そこで同性愛者という個人は医学的レッテルを貼られ、同性間の性行動は研究対象となり、定義の対象ともなったのである。

クイア・スタディーズについて

私たちの間にある差異や多様性。特にセクシュアリティに関するもの、こうした差異や多様性そして社会心理的な、あるいは歴史に根ざした構造的な問題について研究するのが「クイア・スタディーズ」である。今回はこの西洋由来の魅力的な学問をざっと見ていきたい。
そもそもクイアとは英語圏においては「変態」という意味の侮蔑語であった。そしてそれは主に同性愛者など性的少数者に向けられるものであった。同性愛の犯罪化、病理化を経て1970年代のゲイ解放運動の波の中で、クイアという単語は新たな意味を付与されていく。
クイアとは私たちの中にある差異や多様性についての思考を深化させ、また細分化された各セクシュアリティを集約させるものとしても機能していく。今回は「クイア・スタディーズ」について概観していきたい。


1.同性愛の病理化・犯罪化

同性愛という用語は、1868年にハンガリー医師ベンケルトによって考案された。それ以来同性愛は1世紀以上に渡って学問研究の対象となってきた。

19世紀後半になると、同性愛はスキャンダルとして扱われ法的な迫害も受けるようになっていく。同性愛を犯罪とし、法的に規制する動きが出てきた。だが同性愛を病理として考え、こうした言説を廃棄し、医療化していこうとする考えも出てくる。同性愛の犯罪化と医療化はほぼ同時に起きた。同性愛を医療化する言説は犯罪化に対する対抗言説として機能したのだ。

同性愛という用語の考案者であるハンガリー人医師であるカーロイ・マリア・ベンケルトは1869年にドイツで男性同性間の性行為を犯罪化する法案(ドイツ刑法175条)が提出された時にこの法案に対して反対する公開書状を法務大臣宛に送付した。同性愛者ら他の人々に危害を加えるものではなく、他の人々の権利を犯すものでもないからだ。
ベンケルトが同性愛という言葉を考案する少し前に、法律家であるカール・ハインリッヒ・ウルリヒスである。同性愛を「男性の肉体に宿る女性の魂」という考え方を提唱し、同性間の性的嗜好を「第三の性」として捉え、これ「ウラニズム」と呼んだ。これはウルリヒス自身が同性愛を病理化しようとする意図からではない。同性愛の自然性、すなわち先天性を主張しようとするものである。つまり、同性愛は先天的であるから法律で取り締まるような「自然に反する罪」にはなり得ないという考えである。
「ウラニズム」の定義は同性間の性行為を説明するために、性別カテゴリーを男/女に分割し、さらにそれを心/身という二項目と交差させ心/身に男女それぞれの形態を割り振ることに依拠している。ウラニズムはこの項目が転倒することを指す。「男の身体に女の魂/女の身体に男の魂が宿る」ことがそれである。
同性愛は先天的なものであり、医療的な治療の対象とすべきものであるという概念だ。こうした概念は「同性愛遺伝子」を見出そうとする昨今の動きを見ると既に過去のものとなったと一蹴することもできないのではないか。


2.ホモフォビアヘテロセクシズム

1972年に、精神分析学者であるギ・オッキンガムは「ホモセクシュアルな欲望」を出版した。その冒頭には、「問題なのは同性愛の欲望ではなく、同性愛に対する恐怖なのである。なぜ、その言葉を単に並べることが嫌悪や憎悪の引き金になってしまうのだろう」とある。オッキンガムは問題を同性愛を忌避し、恐怖・嫌悪する社会の側にあるとしたのである。このように同性愛を抑圧・差別する社会にその原因を求めるようになったのは解放主義的傾向が強くなった70年代に入ってからの特徴である。またレズビアン/ゲイ研究にとって「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」という概念を確立したことはパラダイム転換といっても良いほどの変化であった。
ホモフォビアという単語は心理学起源の用語であり、当初は他の恐怖症と同じようなものとして示唆しれている。オッキンガムらの提唱により、同性愛への恐怖、態度、偏見は個人の精神的状態の問題となったのだ。特にアメリカ社会では社会的な問題を個人主義的なものとして、心理学的に説明が行われることが多い。だがホモフォビアを病理化することは同性愛を病理化しない代わりに、もうひとつの病気を生み出すことにつながってしまう。ケン・プラマーは「それは精神的な疾病を強化しており…女性を無視しており…一般的な性的抑圧から目をそらす働きをし…全体的な問題を個別化してしまっている」と指摘する。またセリア・キッツィンガーは「社会の平等主義的規範から逸脱した特殊な諸個人の個人的病理になった。したがって社会制度や社会的組織に根ざした政治的問題としての我々の抑圧の分析を隠蔽してしまっている」とも言う。つまりホモフォビアは同性愛への見方を個人の意識と精神の問題として矮小化する危険性を含んでおり、同性愛差別を社会における構造的問題として捉えようとする時の隠れ蓑にもなってしまう可能性も含むのだ。
ヘテロセクシズムは対して社会学的な研究領域から出てきたものである。ただ現在ではホモフォビアヘテロセクシズムはほぼ同義の概念として流通している。そして、レズビアン/ゲイ研究においては「個人主義的な病理である」というホモフォビアの捉え方は既になされていない。


3.「クイア理論」

アメリカのアカデミズムにおいて「クイア」「クイア理論」という用語を初めて使ったのはテレサ・デ・ラウレティスである。彼女がクイアという差別用語をあえて使ったのは流動的に変化する現実が存在していたからだ。1990年にカリフォルニア大学で開催された「クイア・セオリー」と題された研究会議の中でクイア概念は提唱された。彼女はその中で、以下のように述べている。

「1990年に学会を主催しましたが、その当時、アメリカ合衆国ではよく『ゲイとレズビアン』という表現が使われていました。…全くゲイとレズビアンのそれとの間に差異がないかのように使われていたのです。私はそれを問題化したかったのです。…ゲイとレズビアンがそれぞれ持っている歴史について考えたかったのです。あえてそれを分けて考えたいと思いました。レズビアンたちはいつもフェミニズムに関わってきました。あるいはフェミニズムの理論や歴史に関わってきました。ですからレズビアンたちは文学や小説あるいは女性の歴史について書いていました。しかしゲイ・スタディーズでは主に社会学歴史学に重点を置いていたわけです。…ですから、私にとってクイア・セオリーというのは、その言葉でもってそうした問題について話すことができるような概念なのです」

ラウレティスは、特にレズビアンセクシュアリティがこれまでの歴史において抹消されてきたことを問題視する。ラウレティスは、差異を持ったセクシュアリティの歴史的固有性が見えないものにされてしまうことに対する警鐘をここでしたかったのである。また抹消されてしまう差異は、ゲイ内部あるいはレズビアン内部における差異をも指しているのだ。
1人の人間の内部に走る様々な線分をいかにして捉えることができるのか?それを模索するのがラウレティスの考える「クイア理論」なのである。さらにもう1つの問題提起として、レズビアンやゲイを研究対象とする場合の既存の学問的枠組みや体系に関するものである。従来の研究では、既存の学問的枠組みや体系に規定される側面があった。それまでの研究の主役は医学や精神医学であり、1970年代以降は社会学や心理学に取って代わられる。だがこうした変化を経ても、レズビアンやゲイを一面でしか理解していないことには変わりなかった。こうした背景を批判的に考察し、既存の学問領域を横断すること、そして学問的枠組み自体を転換していく必要性が主張されるのだ。このように、ラウレティスのクイア理論は既存の学問的体系を越えるための実践的方法論でもある。
本来的には、クイア理論とは自己と他者の間に、または自己の内部に存在する差異に目を向けることである。そして、そうした差異に敏感になり一貫性や正常性から自らが脱していくことを重視する。だがクイア概念が、一方では様々な性的少数者の集団を総称したり、包括するカテゴリーとして理解されたり、ある意味では同一化しているゲイやレズビアンの集団を排除していく方向性を取るために使われる危険もある。こうした動きは意図せざる結果かもしれないが、皮肉なものであるといえよう。


現代社会の持つ「生きづらさ」とは一体どこから出てくるものなのだろうか。私たちは様々なカテゴリーの中で生きているといえる。例えばその最小単位は「人間」であり、ジェンダー的には「男と女」となるであろう。そこに民族や宗教、人種、言語、性的アイデンティティなど……無数のカテゴライズの中で私たちは存在している。そして、性に関するもの、生殖に関するカテゴライズは強力なものとして未だに存在している。
だが、21世紀を迎えそして進歩していく科学の領域の中では男女という性差も「程度の差でしかない」との指摘もある。そうした中にあっても、人々の意識とりわけ社会制度および社会通念上はこの男女という概念は未だに「黴くさい」もののまま存在している。そしてそこからはゲイやレズビアントランスジェンダーというマイノリティは想定外、規格外の存在として周縁に追いやられる傾向が強い。
クイア理論はこれまでも書いたように、個人及び社会の中に無数に走るカテゴリーや境界について考察する学問であり、実践的な方法論の1つなのである。クイアという用語そのものはセクシュアリティに関する意味合いが強いが、何もその意図するところは同性愛者に限定されたものではないだろう。
同性愛者、異性愛者問わずこの無数の境界について考察を深めていくことは無駄なことではなく、むしろ必要不可欠なものとなっていくだろう。相互理解の第一歩は、そうした思考の模索から始まるのだから。

 

参考文献

「クイア・スタディーズ」

河口和也著

岩波書店