偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

フロイト「性理論のための3篇」第1篇:性的異常

このところ心理学へ興味が出てきて、フロイトをちまちまと読んでいる。心理学に限らず、ある学問上の概念が社会に浸透していく過程において本来の定義や意味が極端に単純化・一般化され誤解されたまま理解されていることは多い。心理学とは、見えない心の領域、無意識の領域を扱うがゆえに時にセンセーショナルな扱いを受けてきた。フロイトによる性倒錯の理論は歴史的に大きな影響を与えた。科学による正常と異常の定義は社会的に大きな動揺を与え、同時に不安定な時代背景にあってスケープゴートとしての「性倒錯者」「異常者」を作り上げていくのに寄与もし、利用された。
同性愛はその事例の一つであるが、皮肉なことにフロイトその人は、同性愛を始めとする性倒錯者、異常性愛に対しては最も理解が深く、強く擁護もした。
そうした彼の理論を改めて辿りたい。


生物学では人間や動物に性の欲求があることを、「性欲動」というものを想定することによって表現する。これは食べ物の摂取欲動である空腹に従うものであるが、私たちが普段話す言葉の中にはこれに対応するものが欠落している。よって、学問的にはそれに対応するものとして「リビード」を用いるのだ。
性欲動の性質と特徴については、通俗的には「性欲動は子供の頃は存在せず、思春期の成熟の過程と関わりながら発現し、一方の性が他方の性に対して抵抗し難い魅力という現象として現れる。そして、性欲動の目的とは、性交へ至る途上の行為である」とされる。
だが、このような説明は必ずしも現実を写し取れてはいないだろう。こうした説明には多くの間違いや不正確な内容、性急な判断が含まれている。フロイトはここで、2つの用語を導入する。性的魅力を発する人物を「性対象」とし、欲動が向かう先の行為を「性目標」と名付けるのだ。


1.性対象に関する逸脱
男ではなく、女が性対象の女たちがいる。こういった人々のことを「反対性愛者(コントレールゼクスアーレ)」とも呼ぶが、「対象倒錯者(インヴェルティールテ)」と名付ける方が良い、とフロイトはする。またこうした現実(いわゆる同性愛)を、「対象倒錯」という。このような倒錯を持つ人々はかなりいるが、正確な数を割り出すのは困難である。

A.対象倒錯
a.絶対的倒錯者:性対象が同性のみに限られるもの。異性は憧れの対象にはならずに、むしろ性的な嫌悪感を呼び起こす。

b.両性的対象倒錯者(精神-性的両性具有者):性対象が同性でもあり、異性でもあるもの。この対象倒錯者には排他性という特徴はない。

c.機会的性倒錯者:特定の外的条件、正常な性対象が手に届かないことや、性行為を模倣することなどの条件のもとで同性を性対象とし、その性行為で満足するもの。

対象倒錯の特徴が当事者に現れてくるのが昔からの場合もあれば、思春期に入る前か後であるか、特定の時期にようやく気づかれるという場合もある。こうした特徴は一生続く場合もあれば、時折目立たなくなることもある。正常な性対象と性倒錯的な性対象との間を周期的に動揺することも観察される。特に興味深いのは正常な性対象となんらかの辛い経験があってから、対象倒錯者という意味でリビードが変化する場合である。

対象倒錯の最初の評価は、神経質症の変質の先天的なサインである、という理解であった。神経を病んだ患者及びそのような印象を与えるような人々を観察する中で、性倒錯に遭遇していたという事実から導かれたものである。こうした特徴づけの中には、それぞれ独立して判断するべき先天性と、変質が含まれている。この変質という言葉は非難に値する。原因が見当たらない症状を有する病気は全て変質であるとすることが習慣になってしまっているのだ。以下に挙げるものは変質という言葉を用いない方が理にかなっていよう。

1.正常規範からの重大な逸脱がいくつも同時には生じていない場合。

2.生活能力及び生存能力が大体においてひどく損なわれているようには見えない場合。

性倒錯者がこのような意味では変質者とは言えない事実は以下に挙げられる。

1.性倒錯はそれ以外には正常規範からの重大な逸脱がない人々において見出されること。

2.性倒錯者は、生活能力が障害されていないどころか、特別に高い知的能力の発達及び道徳的な文化教養という点で優れている人々において見出されること。

こうした点を踏まえ、フロイトは性倒錯を以下のように理解している。

「性倒錯は文化的高みにあった古代民族において重要な機能を担う、ほとんど制度的とも言えるありふれた現象であったことに価値が置かれなければならない」

次に先天性について見ていく。先天性とは、性倒錯者の分類の最初の群、最も極端な群に属する人々にだけ主張された要因である。こうした主張は、性欲動がその人生を通じてそれ以外の方向を取ることがなかった、という性倒錯者たちについての確認に基づいている。だが先述したように、性倒錯者の群は特に機会的性倒錯者の例に見られるように、この先天性の特徴とは合致しない。
先天性の主張とは反対に、性倒錯は後天的に獲得された特徴であるとするものもある。
つまり、「絶対的性倒錯者を含む多くの対象性倒錯者においては人生の早い時期に作用を及ぼしているなんらかの性的印象のあることが証明でき、その結果として同性愛的傾向が生じる」のである。
様々な異論はあるものの、同じような性的働きかけを受けながらも、対象倒錯に陥ることもない多くの人々がいる。こうした事実によって、対象倒錯が先天的なのか、後天的なのかといった二者択一では不十分であるだろう。
よって、対象倒錯の本質とは、先天的なものと仮定しても、後天的なものと仮定したとしても説明のつかないものなのである。先天的であると仮定する場合は、性倒錯の何が先天的かをはっきりとしなければならない。後天的であると仮定した場合は、様々な偶然的な影響だけで対象倒錯になることを説明できるかが問われる。この後天性という要因を否定することは、これまでのところできないだろう。

対象性倒錯者の性対象が正常な性対象と相反するものであることは、当然の前提となっている。男の対象性倒錯者は、女性と同じように男性の肉体的特徴や心の特徴から発する魅力に弱く、自らを女であると感じて男を求めるのである。これが当てはまる対象倒錯者は多いが、対象倒錯の特徴を言い当てているわけではない。男の対象倒錯者の多くは男性としての心的特徴が保たれており、反対の性(女性)の第二次性別特徴を備えていることは比較的まれだ。
女の対象倒錯者は男性的特徴が身体と心の両方において備わっていることが高い頻度で見られる。そして、性対象からは女性的なものを要求する。ただ詳細に調べれば多彩な違いが見出せることだろう。

対象倒錯者においては、性目標を纏った形で述べることは難しい。男性対象倒錯者の場合でも、女性対象倒錯者の場合でもその性目標は肛門性交から口唇愛撫、感情のみであったりと多彩である。

ここまで考察を進めて、満足できる説明ができたとはいえない。だが1つの洞察にたどり着くことはできたかもしれない。私たちの注意を引いたのは、性欲動と性対象の結びつきをこれまでにもあまりに緊密なものとして考えすぎたということである。正常な状態では性欲動と性対象が画一的な状態になっているため、欲動が対象を伴っているように見えてしまうのである。ここで、思考する際に欲動と対象との結びつきを緩めるように教えられるのだ。性欲動は、初めのうちは恐らく対象とは無関係なものなのだ。よって、性欲動の発生も恐らく対象からの刺激によるものではないだろう。


2.性目標に関する逸脱
正常な性目標とは、性交によって生殖器同士を結合させることである。
目標倒錯は、以下のものとして挙げられる。

a.性的結合のために決められている身体領域から解剖学上はみ出してしまうこと。

b.最終的な性目標へ至る途上、性対象に対する中間段階的な関係のうちに逗留してしまうこと。

性対象は性欲動の欲望目標であるが、その心的価値評価が生殖器だけに限定されることは起こりえない。
口腔や肛門の利用などは、対象倒錯者に限ったことではない。またフェティシズムと呼ばれるものも性目標の逸脱として見ることができる。
こうした様々な逸脱について、改めて性欲動の知識に付け加えるようなことは何もない。単に性欲動はあの手この手で性対象を自分のものにしようとしているだけなのだ。

正常な性目標に手が届くことを困難にしたり、遠ざけたりするような条件のどれもが、準備段階にある行為をそのままの状態に留まらせようとする。そこから、新しい性目標が生み出されて正常な性目標と置き換わるのである。

目標倒錯は数々の「部分欲動」に還元することができる。さらにこれらは、一次的なものではなく、細かく分類することができる。欲動とは連続して流れている内身体的な刺激の心理的代理に他ならないのである。よって、外部からやってくる興奮によってもたらされる刺激とは異なるものである。欲動とは、心というものを身体的なものから区別する境界づけの概念の1つのであると理解できる。
欲動学説には、身体の諸器官から化学的な性質の違いに基づく2種類の興奮が生み出されているという想定がある。そのうちの1つを特殊性的な興奮と呼び、それを生み出す器官のことをその場所から生じる性的部分欲動の「性源域」と呼ぶ。口腔や肛門に性的意味を持たせようとする目標倒錯の際には性源域の役割を理解するのは簡単である。それは生殖器と同じように振る舞うのである。性源域は、生殖器に準ずる副次的器官であるのだ。

目標倒錯へと至る素質は特に珍しいものではない。むしろ、正常と考えられている体質の一部を形作っているのではないか。目標倒錯が生得的条件に基づくものなのか、偶然の体験から生じたものなのかという問題にはまだ決着はついていない。
フロイトはここで、その解決を呈示しようと試みる。
目標倒錯は、生得的なものが根本にあるが、それはあらゆる人間に共通する生得的なものであって、素質としてはその強度に強弱の差があるかもしれず、生活の影響による強化を持つだろう。問題なのは、性欲動の生得的な根っこの部分なのである。多くのケースの中で、この根っこは性的活動の担い手へと発達し、神経症の群では不十分な押さえ込みによって病的な症状を呈するようにもなる。そして、こうした極端な2つのケースの間のバランスを取って正常な性生活が成立してくるのである。