偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

「自由と社会的抑圧」シモーヌ・ヴェイユ

‪人間への深い理解と愛、そして社会と権力への厳しく鋭い眼差し。夢想と理想は違う。高度に組織化される社会や生産活動の中にあって、人々は混乱と無自覚、そして隷従の只中にいる。次第に個人が集団化、匿名化されていく時代にあって、ヴェイユは人々の啓かれた個々の善意を信じた。‬そして、たとえ不可能であったとしても、強者も弱者も互いに協働して巨大な社会的抑圧を乗り越えていくべきなのだ。そして、新たな女王として君臨する科学や技術は全く異なる視点から、社会的生を日常の中から、とりわけ労働の中において考察していく必要がある。こうした努力こそが、あらゆる抑圧から個人を救い、精神を新たな紐帯へと結び直すものになるだろう。
個人的には「現代社会の素描」が面白かった。ヴェイユの描く「現代の素描」は1934年のものであり、第二次世界大戦が始まる5年前のものだ。だがそこにある顔なき個人(労働者)の姿は、21世紀を迎えた現代でも色褪せるものではなく、生き生きとして立ち昇ってくる。
私たちは、絶え間ない技術の発展と複雑さを増す社会によってどのような存在となり得たのか?そして、私たちの持つこの文明は果たして私たちを豊かに、そして幸福に導いていくものなのだろうか?こうした問いの答えはいまだその輪郭すら、掴めてはいまい。
行動と思索の人ヴェイユの代表作の一つから、辿っていく……。


抑圧の分析
「現代とは、生きる理由を通常は構成するものと考えられている一切が消滅し、全てを問い直す覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である」

「個として行動する人々の啓かれた善意こそが、社会進歩にとって唯一の可能な原理である」

「われわれは物質的な進歩を、天与の賜物あるいは自明のものとして、あまりにも安直に受け入れている。進歩を実現させる代価となる諸条件を直視せねばなるまい」


なにをなすべきか。無思慮な熱気に煽られて論戦に巻き込まれても益はない。
力と抑圧は別物である。ある力が抑圧的であるかどうかは、力が行使される方法ではなく、力の本質そのものにより決定される。抑圧は、客観的な諸条件から生じる。第一に特権の存在である。この特権を規定するのは事物の本質である。人間の発展に不可避なある種の状況に、人間と生存条件と努力と努力の間に割り込む様々な勢力を出現させる。だがこうした勢力な万人には分配されず一部の人々の占有物となる。だがこうした特権だけで抑圧を規定するのは充分ではない。弱者による抵抗と、強者の正義感により不平等は緩和されうるからだ。不平等も権勢のための闘争が介入するのでなければ自然的な欲求が突きつける以上に過酷な必然を出現させはしない。
主人は奴隷を怖れるからこそ、奴隷にとって恐るべき存在となる。自身が支配する人々に対する闘争と、自身の競合者に対する闘争は分かち難く結びついている。いかなる権力も、外部で得られた成功によって、内部の結束強化を目指さねばならない。だが闘争の勝利に欠かせない服従と犠牲を被支配者からとりつけるためにより権力は抑圧的にならざるを得ない。このような新たな抑圧を可能にするために、権力は外部へと向かって行く。こうして、連鎖は続いて行くのだ。
この循環を打破する方法はふたつしかない。一つは不平等の撤廃であり、もう一つは安定した権力の確立、支配する者と服従する者との間に均衡を成立させる権力の確立である。
一般論として人間と人間の間では、支配と服従の関係が受容されることはあり得ず、不均衡を生み出すのが常である。私的生活においてもおなじである。
権力への奔走は、強者と弱者の別なく万人を隷従させる。
利害というのは利己的行動の原理だ。よりよく生きる手段に過ぎない事物のために、他者と生命をぎせいにすること、これこそが社会的な存在を支配する法則である。こうした犠牲は様々な形態を帯びるが、権力の問題へと要約される。権力は手段しか構成しない。権力を有することは、個人が単独で行使しうる制限された力を超える行動手段を有することである。だが、対象を決して掌握することはできない、という本質的な無力さゆえに、権力は目的についての考察を斥ける。そして最終的には追求が一切の目的に取って替わるのだ。歴史に溢れる無思慮と流血は、根源的にこの狂気にある。人類の歴史は隷従の歴史である。万人は抑圧者であっても被抑圧者であっても、自身が作り上げた支配の手段に翻弄される玩具となり、惰性的な事物へと貶められる。


自由な社会の理論的展望
「しかしながら、自分を自由たるべく生を受けたと人間が感じることを、世界の何ものも妨げることはできない。断じて、なにがあろうと、人間は隷従を受け入れられない」

自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期が来ている。よりよき状況は、完全なそれとの対比でのみ構想しうる。それは理想をおいて他にない。
人間が生きていく限り、必然の重圧は緩まないだろう。人間の弱さを考慮すれば、労働の観念すら喪失したような人生が狂気に晒されることは理解できる。規律なしに自己の制御はないのだ。唯一の自由とは、幼児が享受する自由であり、現実では自身の気まぐれへの服従に他ならない。
自由という語は、欲するものを努力せず獲得する可能性以外の何かを意味している。人間は思考する。よって、必然が押し付けてくる外的刺激に屈するか、内的表象に自身を適合させるのかという選択肢を有する。ここに、隷従と自由の対立がある。
隷従の要因は、他者の存在である。これこそが唯一の本質的な因子である。人間のみが人間を隷従せしめる。
最も弊害の少ない社会とは、一般の人々が行動する際にあたって最も頻繁に思考する義務を負い、集団にあって最大限の制御の可能性を持ち、最大限の独立を保持するような社会である。肝要なのは、特定の方向に邁進することではなく、最善の均衡を見出すことなのだ。


現代社会の素描
「…おのれの行動を思考に服させるなどもってのほか、そもそも思考すらおぼつかないというのは、かつてない事態である」

「われわれは何もかもが人間の尺度に合わない世界に生きている。人間の肉体、人間の精神、現実に人間の生の基本要因を構成する事物、これら三者の間におぞましい不釣り合いが介在する。一切が均衡を欠く」

「現に生きている世代は、人類史上に連綿と続く全ての世代の中で、おそらく想像上の上では最大の責任を、現実的には最小の責任を担うことになろう。この状況は、ひとたび十全に理解されたならば、驚嘆すべき精神の自由を与えてくれる」

生は全く次元の異なる単位に転移してしまったのだ。
経済体制は、物質的な基盤を覆すためにのみ機能し始めた。そして、技術の進歩と大量生産は労働者を受動的な役割へと追い込んでいく。他方で企業はあまりにも防爆で複雑なものとなっている。人間は自己の帰属をそこで十分に感じることができない。あらゆる領域において、重要な職にある人々は、ひとりの人間精神の射程をはるかに超える責を負うことになる。社会的生の総体は、多様な要因に依存しているが、この要因一つ一つは曖昧で錯綜する関係性へと絡まり合っている。その複雑なメカニズムを理解しようと思いつくものはいない。
人間がここまで隷従させられてしまうと、いかなる領域においても価値判断は外的基準に依拠するしかなくなる。
唯一の救いの可能性は、社会的生の脱集中化を目指して、強者も弱者も力を合わせて方法的に協働することである。だが、個人間の競争と階級間の闘争と国家間の戦争に基盤を置く文明にあって、こうした協働は夢にも考えられないだろう。だが、この協働なくしては、中有集権化に向かう偶然任せの社会的な機械仕掛をおしとどめることはできないのである。



「この文明には人間を解放する何かを含んでいる」

科学や技術に対する全く新たな視点からの歴史、現状そして発展の可能性についての研究が不可欠になるであろう。日常の生、特に労働における日常の生において、また他方では科学の方法的理論化において人間の思考が実現して来た精神の歩みに見られる類比に光を当てて、解明しなければならない。
このような一連の考察がその後の進化になんら影響を与えなかったとしても、価値がないわけではない。この努力を行う人間は、集団的目眩の汚染から自己を救い出し、社会の中にある偶像を見下ろしつつ精神と宇宙との原初的な協定を結び直すことができるであろう。