偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

「セルフ・ネグレクト」

もう数年前のニュースだったが、ある親子が餓死したという記事を目にした記憶がある。彼らは市役所から生活保護を受けるように、と再三促され家庭訪問もなされていたのにも関わらず拒否し続けた末の結末であったと記憶している。
私はこの報道にかなりショックを受けた覚えがある。なぜ、こんなことが起こるのか。そしてこの時に初めて「セルフ・ネグレクト」という言葉を知った。社会保障の網や社会的繋がりから零れ落ちた人たち。彼らは助けを求めることもせず、文字通り自分自身を「放棄」する。その結果が、餓死という悲惨なものであった。
これは決して他人事ではない。日本社会はどこか、平均台の上を歩くようなところがある。高校に進学できなければ終わり、その次は大学、就職……とどこかの段階で躓いたり、外れたりすればメインストリートに戻ることは困難な雰囲気がどこかにある。
中学3年生の子どもが、進路に悩み電車に飛び込む。
これは普通のことではない。私たちの社会の何がそうまでさせるのか。そして、「セルフ・ネグレクト」にはそうした社会と、そこに生活する人の縮図がある。
今回は、「潮」6月号より「セルフ・ネグレクトとは何か」を参考にセルフ・ネグレクトについて概観していきたい。

セルフ・ネグレクトとは、日本語では「自己放任」という意味である。生活の維持に必要な行為をしないために生命、健康、安全が損なわれる状態に陥ることを指す。
例えばゴミ屋敷や多数の動物の放し飼いによる住居の不衛生や、食事、医療サービスなどの拒否によって健康や安全に悪影響を及ぼすことなどがこれに当たる。最悪の場合は死に至ることもある。
日本においては、2006年に高齢者虐待防止法が制定された頃からセルフ・ネグレクトが問題視されるようになった。2011年に内閣府が実施した調査によると、約1万人の高齢者がセルフ・ネグレクト状態にあると考えられている。
ただ、セルフ・ネグレクトに陥る人の特徴として、周囲から孤立してしまっているケースが多く、民生委員や保健師、家族や近隣住民が状況を把握しきれていないのが現状である。孤立死と思われる事例の約8割が生前に何らかのセルフ・ネグレクト状態であった可能性があると指摘する調査結果もある。

では、どのような要因によってセルフ・ネグレクトにいたるのであろうか。
まず認知症精神疾患などによる生活能力の低下が挙げられる。また他者から虐待を受けたことで、自己肯定感を喪失し、セルフ・ネグレクトに至るケースもある。
ただ一方でこうした疾患や虐待といった要因を抱えていない人々もその他の様々な要因からセルフ・ネグレクトに陥る人々もいる。すなわち「ライフイベント」が起きたことで生活意欲が低下したり、個人の性格、家族や近隣の人々からの孤立といったことが挙げられる。ライフイベントとは、例えば家族や配偶者の死などを指す。そうしたショックから日常生活への営みを放棄してしまうといった事例が挙げられる。
セルフ・ネグレクトは徐々に生きるための営みを辞めてしまうものである。象徴的なのはセルフ・ネグレクト状態にある多くの人が「生きていても仕方がない」「私のことは放っておいてください」といったことを口にすることだ。またプライドの高い人、遠慮深い性格の人がSOSのサインを出せず、または支援の手を拒否して死に至るケースも見られる。
その背景に、何らかの疾患や性格的なもの、ライフイベントによるものなど要因が様々なものであったとしても生命、健康、安全が損なわれる状態に陥っていれば等しくセルフ・ネグレクトであると認識することがポイントである。
アメリカでは多くの州で高齢者虐とセルフ・ネグレクトが同じ分類の問題とされている。ともに人権を脅かすものであると認識されているからだ。つまり、他者から放棄されるのも自分自身で放棄するのも、生命、健康、安全を危険に晒すという点においては変わりがないからだ。セルフ・ネグレクトは複数の要因が重なることで起きる。その意味では高齢者に限らず誰にでも起こりうる事態なのである。
人権意識をベースにしたセルフ・ネグレクトに対する理解と対策を社会の中に醸成していくことが必要である。


自己責任を基調とした今の社会の在り方から、いかに変化していけるのか。社会福祉社会保障の在り方も同時に問われているといえる。