偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

「譲りたくないもの」改稿版

以前自分が書いていたエッセイを久し振りに読み返してみた。私は基本的に頭に浮かんだことを、特にオチもまとまりもなく好き勝手に書いていく。読んだ本の感想や、日常生活の中での気づき、そして小説や創作に関することなど…。今回読み返してみたのは小説に関するもので、ざっくり言えば「私が小説を書く上で譲ることのできないもの」を書き連ねたものだ。
改めて読み返してみても、特に自分の気持ちと変わったところはない。以下にそのまま載せた上で、気ままに加筆してみよう。

 

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正直、他人の評価を気にして自分の表現したいものを変える人の気持ちが分からない。また、評価や反応がないからといって諦めて辞める人の気持ちも分からない。
なにも、否定をしているのではない。ただ純粋に分からない。そもそも、その他大勢が求めるものと自分自身が表現したいものが重なることなんてそうないことだ。……だからこそ誰かの目を気にしてその嗜好に合わせたりするんだ!ということなのだろうけど。
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私はたとえどんなに拙い表現の仕方や切り取り方であっても、その人にしかできない表現やテーマというものがあると信じている。それは自分自身に対してもそうだ。
私には私自身にしか言えないことや書けないことが、必ずある。それを何故捻じ曲げてまで、誰かにおもねらなければならないのかが理解できない。
この点に関しては私は「傲慢」とも言えるプライドを持っている。むしろ、万人ウケし、易々と理解されてしまった方が「困る」と思っている。そして、誰かの評価や反応一つで呆気なく揺らいで挫折するほど「ヤワでつまらない」ものを、お前は表現したいと思ってるのか!とも思っている。これはほとんど怒りに近いものだ。
他の部分に関してはそう拘りはないが、こと「自分のやりたいこと/表現したいこと」に関してはかなり頑固だ。
巷で流行っているテーマやストーリーには興味がない。それを表現した方が、自分にとってメリット(ポイントとか、フォロワーだろうか?)があったとしても、そういうものに手を出そうとは全く思わない。
どうして他人と同じことをしなければならないのか、自分を曲げてまでやらなければならないか、本当に理解ができないからだ。画一的に均されるのは、もう学校教育の中で嫌というほどされたのだから、ものを作る時くらい自由気ままにやりたい。
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最近思うのが、人間というのは徹底的に孤独な存在でしかあり得ないということだ。これは哀しい思想でもあるけれど、この「孤独さ」というのが結構愛おしい。私たちは表面上は分かり合い、繋がっているように思えるけれど、所詮それも幸福な幻想にしか過ぎない。「私」を理解してくれる存在というのは結局のところ誰もいやしない。それは絶望に繋がるかというと、そうでもない。誰にも理解されないからこそ、私の内面というのは「徹底的に自由」であることも可能であるからだ。
よく、小説を書くこと (のみならず創作することは一般的に) 孤独な作業であると言われる。私にとって、そんなことは別に今更大きな顔で言われるようなことでもない。私たちの存在は根本的に孤独なのであり、その私たちのなすあらゆる行動が「孤独」であることなどは周知の事実だ。
誰かと交わらない、交わることのできない、徹底的に孤独な部分なしに文章を書くことは無理だろうと思う。
下品なたとえだが、私の小説を読んでくれる人によく「本当にオナニー小説だね」と言われる。つまり自己満足的で独りよがりということなのだけれど、それはその通りだと納得する。
読者のことなんて、基本的に考えない。記録をつけるためにここに投稿しているが、「反応があれば儲けもん」のスタイルでずっとやっている。
私が何を書きたいか、書けるかが最優先であり別に評価や反応が先に来るわけではない。
そういう意識は先述した「傲慢なプライド」に収斂されていく訳だが、自己表現とはそういうものだと思っている。
高尚なことはなにもない。ある意味、残酷なものだと、ふと思う。
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だから媚びたら終わりだし、それは自分で自分を殺すようなものだと思っている。
沢山の人が絵を描いたり、小説を書いたりしているが私はそういう人を見かけた時に、「この人にはこの人にしか表現できない世界があるんだろうなぁ」という思いで眺めている。
そこに他者の軸が横入りして、汲々とさせている/しているのを見つけると、残念な気持ちになる。
「あなたは何を表現したいの?」と面と向かって聞きたくなる。多数に是があり、人気のあるもの、売れるものが正しく面白いなんて誰が決めたのかと「ベストセラー」や「芥川賞」などを見ると思う。そういうものは、最も醜悪な価値観の一つだろうと私は常々思っている。
ゴッホゴーギャンが生前どんな扱いを受けたのか見れば、流行り廃りの薄っぺらさは自明である。
人はそんなに強くないんだよ!と言われればそれまでだが、私は自分の持っている視点やそれを切り取る文章を、簡単に揺るがせたくはない。
誰にだって、武器はあるのだから斬り込む意味はあると思っている。それがまだ「なまくら」だと思うのなら、人の倍勉強すれば良いだけだと思う。
私も日々勉強であると思っているし、自分に才能があるとも思ってない。ただ、表現したいものだけは誰かによって揺るがせたくないだけである。
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そして、こんなマイペースな私の書くものを読んで感想をくれる人達を大切にできれば望むものは何もない。
テーマを見つけること、とにかく勉強して文章を磨くこと、周りの人を大切にすること、これだけは絶対に誰にも譲りたくはない。

もしも言葉がなかったら、私達はどういう存在になっているのだろうか。言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。だが、語る者は、最終的には自分の非力さを告白する。
バタイユ「エロティシズム」
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たらたらと書いているが、私にとって大切なことは「誰に見られるか、何を言われるか」ではなく、「自分が何をどう書くか」でしかない。
ここで私は読み返しても、結構キツイことを書いているなぁと思う。

人はそんなに強くない。認められたいし、褒められたい。
それでもいいだろう。だがそれは、孤独を愛し耐えた上でなければ、多分実にはならず血肉にはならないだろう。
「私」という存在は弱い。それを乗り越えるために、癒すために、自己表現があるのなら、まずはその弱さを自分の目で見つめる必要があると思うのだ。
他者に尋ねるのは、それからでも遅くはない。ただでさえ、現代は孤独に対してうるさい。雑音が多過ぎる。表現する上において、最良の調味料はなんだろうか。
私にとっては「孤独」であり、このエッセイの中で挙げた諸々の「譲りたくないもの」たちのことである。