偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

「日本人の思惟方法」続き

2.人間結合組織を重視する傾向

a.人間関係の重視
日本人は人間の持つ自然な感情を尊重するが、これは人間結合組織を重視する傾向として現れてくる。また人間関係を重視することは、日本人が礼儀作法を重んじる行動形式にも顕著である。西洋においては人々の応対挨拶な簡易であるが、日本人は丁寧に行う。日本語においても敬語の用法が複雑豊富に発達していることもこの傾向を示す。


b.個人に対する人間関係の優越
人間関係を重視するということは、個人と個人との間柄や関わり方を重視することである。日本語においても人称代名詞が他の言語と比べて複雑である。日本人は代名詞を用いるたびに身分や親疎など人間関係を想起しなければならず、これは日本人の間にあって特に顕著である。
このような思惟方法においては、具体的な人間関係から抽象かれた独立的な個人に対する自覚が明瞭でないことも示す。よって、個人を等価値的な独立した存在として認める傾向が希薄である。日本語では一人称や二人称の主語を省略する。これは、日本人が行為的主体を客観的なものとして表現すること、また限定して明示しないことを好まない事実を示す。日本人は、個別的な独立の行為主体としての人格という意識を明瞭にしたがらないのである。また同じ関係で、数の概念も明瞭でない。単数と複数との区別が常に明示されているのではないのだ。対象を客観的にあるものとして把握せずに、人間関係において把握しようとする日本人の思惟傾向はこうした言語の特徴によってうかがうことができる。また日本人は西洋人に比べて客観的事物に関しては一つの単位を設定して計量測定する意欲を持たないが、人間的連関に関しては鋭敏であったのだ。興味深いことに、日本人の間では他の民族に比べて対人恐怖症の患者が多い、というような精神病の研究もある。これも個人に対する人間関係の優越性に由来するものかもしれない。
このような傾向が生じたのは、元々局地的な小農的な集団生活のもとで社会が発展していったことと関係があるだろう。そこでは人びとは緊密に結合して閉鎖的な人間結合組織を形成していく。そうした中で人々相互の直感的な理解が成立し、自己主張や意向を貫こうとすると相手を傷つけ、自分も損をする。ここから、個人としての自覚は十分に現れず個人の力に対する自信が弱かっただろうことがうかがえる。このような傾向は東洋人一般に見られることであるが、日本人においては特に顕著である。今日でも農村においては、氏神や土地の神を中心とした社会組織が小さく固まろうとする傾向が強い。この傾向が存続しているために、人間関係を重視し、個人よりも人間結合組織を過度に重視することになるのであろう。


c.有限なる人間結合組織の絶対視
日本人が重視している人間は、限定された特殊な人間結合組織に従属する意味での人間である。よって、日本人は人間に関してより広範な場所としての人間関係において利害的・感情的意義を有するものとして考察しようとする。日本が独自の社会を形成するようになった後でも、日本では主君や家族や部族のために献身的な自己犠牲を行うことが最高の徳とされた。また日本人の間では郷土愛が顕著であり、それも人間結合組織を重視する思惟傾向と関連があるだろう。こうした思惟傾向により、日本人の間では具体的な人間結合組織を超えた、より普遍的なもの(学問的真理・芸術)などのために命を捧げた例は少ない。犠牲を払って真理を求めるということは、当時の支配的勢力の意向と矛盾するのであれば望ましいことではなく、むしろ悪であるとさえ考えられていた。
仏教徒においても、人間結合共同体に対しては忠実であり、その限りにおいて道徳的であった。彼らは国家至上主義に対してさえも忠実であったのだ。閉鎖的な特殊な人間結合組織の利害というものが行動を決定させる主要な基準となっていたのである。


d.国家至上主義の問題
人間結合組織を重視するという傾向は、国家至上主義に至って頂点に達する。その萌芽は古い時代から存在する。日本が他の国々よりも優れた国であるという自尊心と誇りは、最初は自分の生まれた国土を愛するという情から発したものであると考えられる。
日本の優越的意義を認めようとする思想は、神国思想において特に大胆に表明されている。だが一方で、日本は粟散辺土であるという観念は平安時代末期から鎌倉時代に至る中世で顕著だった。こうした傾向は日本を優れた国とみなす傾向と矛盾対立しながら存在していたのだろう。
また皇室を中心として日本が発展してきたことが歴史的事実としてある。皇室と国民の間には敵対感が少なく、親和感の方が強かったようである。国民の間には、家族的な親和感がうかがえるのだ。このように、国家を重視する傾向は今日なお意味を持っていると考えられる。日本が戦後短期間で国際社会に復帰し、経済的にも有力な国家として蘇ったことは、こうした国家を単位とする思惟傾向や行動様式によるところが大きいであろう。「国のため」という意識を日本人が捨て去ることは困難である。
現代においては、部族や宗教を中心とする態度は過去のものとなった。だが世界を単位とする考え方はまだ現実化されていない。そんな中で国家を単位として行動する民族が覇者として登場した。世界国家が樹立するまでは、国家が単位としての意義を持つだろう。ここに、日本における国家主義の歴史的な位置づけの一端を知ることができる。


e.特定個人に対する絶対帰投
閉鎖的で、特殊な人間結合組織の形成を愛好する傾向は、特定の個人に対する絶対帰投の念となって現れている。日本人は人間結合組織を抽象的に理解し把握することを好まない。その代表者である個人的人格に即して理解し把握しようとする。家は生ける家長その人において、幕府は将軍その人として、国家は天皇その人として把握される向きがある。
一般社会における特徴としては、特定個人に対する絶対的随順の態度である。特定個人の権威を強調しようとするのである。


f.権威の尊重と外国崇拝
一般に権威というのは、国家や社会、団体によって特定個人に付与され、それが成員によって承認されている場合に成立する。人間関係が強固であり、安定している場合には権威が成立しやすい傾向がある。
宗教面から考えると、聖典の権威への絶対随順という点がある。また権威に対する絶対的帰投の態度は仏教や儒教を排斥した国学者の場合にも現れている。こうした特定権威に対する全面的帰投の態度は、狭い範囲に形成された共同生活において、人格と人格との緊密な結びつきを要請し人々の間には親和感、結合感が顕著であることによるだろう。これは一方では自我の独立性の意識を希薄にさせ、権威に追従するような傾向を招く恐れがある。
また日本文化は外国文化を摂取移入することによって育成されてきた点が多い。よって、外国文化を高く仰ぐことになる。最古代の日本には文字がなかった。そこで漢字が用いられてきたわけだが、のちに仮名文字が発明された。日本人は漢字を「真字」と呼び、仮名文字を「仮名(仮の名)」と呼んだ。仮名文字こそ日本人独自のものであるが、思想的な書物を仮名文字を交えて書くことは遅くに始まった。
また明治以降の思想学問は、西洋で有力な思想を紹介するに過ぎなかった。東洋思想の研究も文献研究が主ではなかっただろうか。
こういったものは、系譜尊重と外国崇拝を指摘することができるだろう。


g.力による人間結合組織の擁護
特殊で具体的な人間結合組織が絶対視されると、それを、擁護して発展させることが絶対的な意義となっていく。よって、自己の所属する組織の存立が脅かされると武力をもってでもそれを守ろうとする。日本人の思惟方法によると、武力を使用すること一般が善いか悪いか、正当であるかというようなことについて倫理的な反省はあまり見られない。人間結合組織を擁護するという内のみに神聖な目的を認める傾向があるのだ。
だがここまで日本人の思惟傾向を辿ってきて、日本人には愛情を尊重する傾向が著しいことも指摘してきた。これらは矛盾するものではないのか?
日本人はそれが例え藩であろうと国家であろうと仲間であろうと、それを維持しその利益を擁護する限りにおいて力に訴える。そこでは自己犠牲の徳が具現化される。だが自らの所属する組織あるいは指導者が戦闘の中止を命ずれば力に訴えることはやめてしまう。それは日本人にとって戦闘が、人を殺すことや破壊することが目的なのではなく、人間結合組織を力で守ることが目的であるからだ。またこうした組織を守ることは同時に名誉を守ることでもあり、道義を守ることでもあったのだ。


h.道徳的反省の鋭敏
個人の存在よりも、個人と個人の間柄に重きを置く思惟方法では、人間相互の間柄に関する感受性が敏感になる。すでに指摘したように、日本人の現世主義と相まって一般に、西洋的な意味における罪の意識に日本人は乏しい。だが西洋人と違った意味での罪の意識は持っている。他人に対する罪の意識は敏感であるのだ。西洋人は中々謝らず、それどころか自己を正当化しようとするが、日本人は自分が他人に迷惑をかけたと思うとすぐに謝る。日本人が宗教的・道徳的な反省において敏感であったかどうかは判断の難しいところではあるが、日本人一般の間に罪悪が少なく道理が支配しているということは指摘されている。現代でもアメリカで日本人移民の間で犯罪の少ないことは他民族と比較しても認められているところである。人間関係に即した道徳的な信頼関係に対しては敏感であったといってよいだろう。

 

 

3.非合理主義的傾向

a.非論理的傾向
日本人は相互の主体的連関に特に注意を払い、相互了解と信頼に基づいて行動がなされる特徴がある。こうした中において、各人は論理的な方向を目指さず、直感的情緒的であることを目指す。日本語においても、その表現形式な論理的正確性を期するよりも感情的・情緒的である傾向がうかがえる。日本語は漠然とほのかな感情を込めて表現する場合が多い。また西洋人からしばしば日本人は「物事をはっきり言わない」と批評される。それは発言者が相手の感情を傷つけないように配慮するからだ。社会生活が論理の表現を制約しているのだ。


b.論理学の未発達
日本人の間では具体的な人間関係から切り離されたものとして推理する自覚があらわれなかった。論争の題材とされている命題自体を、論争という人間的事実から切り離すということを日本人はしなかった。つまり、日本人は普遍的な命題を人間関係から切り離して抽象的に考えることを好まなかったのだ。


c.その他の傾向
また他に見られる思惟的傾向に、直観的・情緒的傾向、複雑な表象を構成する能力の欠如、単純な象徴的表象の愛好、客観的秩序に関する知識追求の弱さが挙げられる。
日本人は人間関係から様々な感情や意味づけを行う。人間相互の存在から切り離された論理は成立し辛く、また好まない傾向にある。抽象的で普遍的かつ論理的な思惟傾向が生まれにくい土壌があるのだ。そして、より単純で象徴的な表象を好む。日本人は単純性のうちに無限に可能な複雑性を生かそうとする。
日本人は基本的に、客観的知識を人間関係から切り離して抽象的に考えない。むしろ人間関係の中において把握する思惟方法を取るのである。

 

さて、本書を一言で表現するなら「日本人による日本人の素描」といったところだろうか。現実への無邪気にも思えるほどの是認、閉鎖的な人間関係への偏重と偏愛、そして非論理的で直観的情緒的な傾向。改めて描かれると、身に覚えのあるものばかりで興味深い。自分の顔は自分では見ることができない。そこで鏡が必要になるわけだが、本書はさながらその鏡といったところだろうか。
日本人のこのような気質は、文学においては大いに豊かなものをもたらしただろうが、科学や哲学など論理的で客観的な知がものを言う学問の根は中々育ちにくかったことだろう。現代の教育では論理的な思考力をいかに養成するかに主眼が置かれている。私たちが民族として、また言語や風土が生み出した「種」とでも言うべきこれらの気質とは真逆な価値観のもとでの発達(と評価)を余儀なくされている。これはいかなる意味を持ちうるのだろうか?
興味は尽きないのだ。日本人は面白い。