偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

現代へのデッサン

現代というのは、見えにくいものだ。なぜかというと、現代という時代はあまりにも卑近なものとして私たちの中に現れているからだ。この2018年から数年間を描写するのと、300年以上前の江戸時代を描写することの易しさを比べると、江戸時代の方がはるかに想像し定義しやすい。
例えるなら、時代というのはモザイク画のようなものだと思う。近寄って見ていると、まるで何がそこに描かれているのか分からない。少し離れて見てようやく全体が分かるのだ。
現代という時代は、あまりにも卑近過ぎる。だが、間違いなく今は歴史の転換点にいるだろうと私は感じている。人の定義はこれから変わっていくだろうし、社会の在り方そして人の脳の構造だって変わっていくに違いない。
ではなぜそう思うのか?そして、そのような「現代」とはどのようなものなのだろうか?
現代はあまりにも卑近過ぎる。私は巨大で複雑になったこの社会や時代の一欠片でも掴めてはいない。ただその影だけをおぼろに見ているだけかもしれない。だがあえてこの現代をデッサンしてみよう。
私の生きる時代を、知らないでは惜しいから。


そもそも、「現代」とはいつから始まったのだろう。ちょっと調べると、現代史学では大まかに20世紀=現代という通説があるらしいがこれも絶対的な基準ではない。他にも大きく区分される歴史的転換点が3つあり、そこを起点として「現代」とする考えがある。
一つは先述した20世紀の始まりをもって現代とするもの、二つめはロシア革命を起点として現代とするもの、そして1945年のいわゆる戦後からを現代とするものだ。
「現代」の起点、つまり時代の移り変わりの定義とはその前の時代と決定的に異なるような社会環境や文明などが現れた/現れる始まりに置かれるであろうことがなんとなく理解できる。だが現代とは常に可変的なものである。その起点をどこに置くかは難しい。


私はインターネットの登場をもってして、「現代」としてみるのも面白いかもしれないなんて思っている。人類が、時間や言語や空間を飛び越えられるような手段を手にした時代はあっただろうか。それも企業や軍隊などごく一部の集団やそこに所属する人間のみに制限されず、市井の人々がそれを手にして日常的に生活を送るような時代である。
とりあえずは1995年からを「現代」としてみよう。言わずもがな、マイクロソフトWindows95を発売した年である。そして、偶然の符号なのだろうけれど日本では地下鉄サリン事件が起こっている。なぜ多くの若者(エリート)が一連の凶行に及んだのか議論されたが、その背景にはバブル崩壊をきっかけにした漠然とした社会不安が関係しているとも言われている。まだ終身雇用の名残のあった時代だろう。だが確実に前の世代が受けていた恩恵(パイ)は細くなっていただろうし、社会は確実に変化を迎えていた。その大きな起点の一つがインターネットの普及であり、よって1995年からをここでは現代としたい。


2018年の今も現代と連なるわけだが、1995年から現在の特徴とはなんだろう。私は思いつくままに以下にあげてみよう。

複雑 集団化 匿名化 不透明 不安
ロールモデルの喪失 神話の喪失 混乱 無自覚

社会は巨大化した。それは必然的に複雑なシステムを作り上げ、人々を集団化した。現代は「顔の見えない個人」のいる時代であると感じる。これはつまり匿名化である。
不透明さ、未来の見通せなさは現在に近づくほど高まっていると感じるが現代の特徴はそこに希望ではなく不安を覚えるところにあるのではないか。それはこれまで強固に存在していた価値観やロールモデル、神話が意味をなさなくなってきたからだと感じる。現実と、語られてきた内容の乖離が凄まじいのだ。
そこで人々はどのように思考し、行動するのだろうか。一つは混乱であり、もう一つは無自覚無神経にならざるを得ない。現実は私たちを傷つける。


ここ最近感じることは、より個人の世界が狭くなってきているということだ。私は現代の特徴の一つに「集団化」を挙げてみたものの、これとは真逆のことが同時に起こっていると感じる。「核個人化」、これは私の作ってみた造語だけれども、個人はより隔絶された存在となって社会の中にある。こうした精神をフリッツ・パールズは「ゲシュタルトの祈り」の中で端的に表しているように思えた。

「私は私のために生き、
あなたはあなたのために生きている。
私がこの世にあるのは、
あなたの期待に応えるためではない。
あなたがこの世にあるのも、
私の期待に応えるためではない。
あなたはあなた、私は私。
たまたま心が通じ合えば、それは素晴らしい。
通じ合わなければ、それはそれで仕方がない」

なんらかの集団(家族や地域、学校や会社、大きくは社会の中で)に属してはいるものの同時に極めて小さな個人としての世界観の中に存在している。これは何を意味するのだろうか。掌の中にタブレットさえあれば、全てが完結できる時代の中にあって私たちは何を考えて思うのか。
この歪さと矛盾、隔絶が今の時代の底流に流れているように思える。
社会集団はかつてほどの力と意味を失い、そこに強烈な個人意識が代わって入っている。そこにインターネットという「現代の申し子」が生まれた時から存在している。現代はそういう世代が家族や地域、学校、社会の中に存在している時代でもある。


ここである二つの問いがふと出てくる。一つは、「文明の発展、技術の進歩は果たして私たちを幸せにするのか?」というものであり、もう一つは、「では既存の社会制度や価値観は、私たちを本当に幸せにしてきたのか?」というものだ。後者の方に対しては、現実に起こっている事象を極端に単純化したり、客観的で論理的な主張よりも主観的で感情的な主張の方が好まれる現象によく表れていると思う。既存のものに対する不安や不信は、問い直されている最中ということか。あるいは、歴史的な審判のただ中にあるというのは大袈裟だろうか。
だが前者の問いに答えることはとても難しい。技術や文明は一つのところにとどまるということはない。現代に明確な区分が存在できないように、それらの是非もそれなりの時間が立たなければ「とりあえずは」つけることができない。そして、それは可変的なものである。ある時代には是とされても、次の時代では全く別の評価となることも当たり前である(ロボトミー手術が良い例だ)。


なんでこんなことを考えているのかというと、最近読んでいるシモーヌ・ヴェイユによるところが大きい。彼女は「現代」をこのように表現している。

「現代とは、生きる理由を通常は構成するものと考えられている一切が消滅し、全てを問い直す覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である。
われわれは何もかもが人間の尺度に合わない世界に生きている。人間の肉体、人間の精神、現実に人間の生の基本要因を構成する事物、これら三者の間におぞましい不釣り合いが介在する。一切が均衡を欠く」


私はこの文章に「人間らしさの喪失」を読んだ。
だが、それは何によって、誰によってもたらされたのか?
現代の悲劇とは、その対象が曖昧模糊で誰にもどんなものにも問えない点にあるのではないか。全てが「顔の見えない個人」に帰結してしまうような恐ろしさ、怖さがそこにある。名前も人種も年齢も性別も国籍もない。一切の固有名詞が存在しない。
ここでは「自分が今を生きている」という実感に乏しい。生きている実感のない中にあって、いかに自分が「生きている」ことを証明できるのか。
現に「本能のあるがままとして生きる肉体」と「漠然とした生を浮遊する精神」、そして「現代という社会環境」の間には、ヴェイユの言葉を借りれば不均衡が、耐えられないほどの不均衡が存在している。
いかにそれらを調和させることができるのか、そもそも調和することなどできるのか……こういった一切は面倒で小難しく、考えたくもないことである。そうであるから、一定の人々は混乱し、さらに多くの人々は無自覚になり無神経になっていく。
だがヴェイユは一方でこんなことも残している。

「すべての人間には聖なるものがある。それは人格ではない。その人の固有の人格でもない。聖なるものとは、端的にその人、その人間である。
人間が同胞のためにできるのは、何かを付与することではなく、別の場所から到来する光、高みから到来する光へとその人間を向き直らせることだ」


心理学や社会学が付与し、定義するものとしての人格ではない部分、最も小さな「人間」としての単位の中にこそ救いがあるのではないか。なんとなく、私はそう思ってみた。私たちができることはそう多くはない。ただあるべき方向へと、また別の人々を向き直らせること、その程度でしかない。それはある種の信仰という宗教的なものとなるかもしれないし、ほんの少しのパターナリズムを伴うアカデミックな先導という形をとるかもしれない。あるいは、全く想像もつかないような社会的なムーブメントが起こることだってあるかもしれない。予想がつかないということは、別の見方をすれば可能性に満ちている、ということだ。こうした「可能性」について、どのように「顔の見えない個人」一人一人が捉えるか。そしてその集合知としてこの時代はどのような空気をまとっているのか、それが現代の一つの「見えてくる顔」であるかもしれない。