偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

第9講 教育の複雑さ・微妙さを伝えたい 広田照幸

そもそも、「教育」とはなんであろうか。広田の定義では「教育とは、誰かが意図的に他者の学習を組織化しようとすること」であるそうだ。だが、「誰か」とは一体誰のことを指すのか、「意図的に」とはどのような意図なのか、それはどう正当化されるのか…など様々な問いが生じてくる。
教育学が様々な分野(教育哲学・教育社会学など)から成り立っているのは固有のアプローチや対象の考察、実証を通してこうした問いに適切な答えを見出そうとしているからなのだ。つまり、「教育とはなにか」という問いにはもっと具体的な沢山の問いから成り立っているわけである。

第一に「他者の学習を組織化しようとする」ということは、傲慢なことであるだろう。ドイツの社会学ルーマンによると、子どもにとって自分に押し付けられる教育な外部環境の一つに過ぎない。「他者の学習を組織化」しようとする教育は相手に受け入れられるのか、また受け入れられたとしても教育者が思うように相手が考えたり行動してくれるのかは心もとない。このことを広田は「教育の不確実性」と呼んでいる。
まず、教育を受ける側は教育に対してやり過ごしたり離脱する自由を持っている。
第二に、教育を受ける側は教育する側が意図したものと全く異なることを学んでしまう可能性がある。
第三に、教育の働きかけは相手と相手の状態によって、全く異なる結果が生じてしまう。
よって、教育に失敗はつきものなのである。教員は自らの知識や経験、目の前の子どもに関する限られた情報とを総動員して、自分が最善だと思うことをやってみるしかないのだ。ドイツの教育哲学者であるブレツィンカは「教育的行為は未知の結果を伴う未知の事柄への介入に他ならない。このような状況は、一方で成果への希望を許容するが、他方で控えめにしかその希望は抱けないのである」と述べている。
教育者は効果的な因果関係やある手段が起こすであろう副作用についても見通すことはできない。そういう状況の中で、手段を選んで教育していくことになる。教育とは、そのようなものなのだ。ゆえに教育には常に失敗がつきまとうが、教育学の知識を参照することで「よりマシな」ものにすることはできる。

教育には沢山の意図が込められている。歴史の授業では、「歴史に対する興味関心を高める」ことを目指して授業することも出来るが「思考力、判断力、表現力を養う」機会として扱うこともできる。教員は沢山の目標達成を意図して一つの授業を行うことができる。また一つの意図の実現に向けて、沢山の教育行為が体系性、継続性を持って組織されることもある。
また教育に込められた意図には対立するようなものも含まれている。学校は本質的に集団と個、平等と差異について矛盾を抱えた空間である。

このように、教育の現場とは複雑なものである。狭い体験や、「○○すれば生徒はついてくる」というような、素人教育論だけを見ていても、より良い教育の方向性は見えてこない。教育は他者を変えようとする行為であるがゆえに、不確実性が常にある。またその目的や目標が無数にありしかもそれらは時として対立し矛盾を抱えてもいる。そうした中では知識と見識が必要であり、教育学はそれらを養うための学問である。「大学で学ぶ教育学は教員の仕事に役立たない」という批判がある。確かに、大学で教えられる教育学は現場とは距離があるだろう。だが、そうであるからこそ「日常にない知」「日常を見つめ直す知」として必要なのではないか。