偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

「知のスクランブル」第3講:古典と二次創作

日本大学文理学部
「知のスクランブル-文理的思考の挑戦」ちくま新書

第3講 物語を読む・作る-古典と二次創作 佐藤至子

現代用語の基礎知識2016」では、二次創作について以下のように説明している。

「既存の作品に基づいて、新たな作品を創作すること。同人誌などのパロディーや音声合成技術によるボーカロイド動画の連鎖などが典型例だが、広く音楽のサンプリング、現代アートにおけるコラージュなど20世紀以降の表現の多くを含む。二本は和歌の本歌取り、歌舞伎から黒澤明の映画に至るまで、二次創作の豊かな伝統を誇る」

二次創作における原作の扱われ方は、作者の姿勢によって2つに分けられる。1つは原作から抽出した要素を作品内部に潜ませて読者が原作の存在に気づかなくても構わない、というもの。2つ目はその逆で読者が原作に気づけるように明示していくものだ。パロディーは原作と重ねて読む楽しさを追求するものである。原作を知る人が多ければ多いほど、パロディー作品も広く受け入れられることになる。よってパロディーが上手くいく条件は以下の2つである。1つは原作の面影を積極的に残すこと、2つは原作を知っている人がなるべく多いことである。

日本の文学は二次創作の宝庫である。ここでは近世(江戸時代)の文学について取り上げよう。近世は古代・中世に続く時代であり、近代の前に当たる時代だ。「伊勢物語」や「源氏物語」の文学は近世の人々にとってもすでに古典文学であった。近世の人々も古典を読むときに注釈書などを用いながら古典を読んでいた。そのように古典に親しむ読者の数は中世よりも、近世の方が多かったと考えられている。それは近世に印刷技術が普及し、出版文化が成立したことと関係がある。近世以前は多くの書物が基本的には書き写すことで複製されていた。注釈研究などの学問的知見を共有できるのも、上流階級の人々に限られていた。16世紀末にヨーロッパと朝鮮から活字印刷の技術がもたらされると日本でも仏教書・歴史書・日本の古典文学など様々な書物が出版されるようになる。その結果それまで限られていた人々に享受されていた古典もより多くの人々に読まれるようになっていくのである。

伊勢物語」のパロディーに「仁勢物語(にせものがたり)」がある。原作では、以下のように物語が始まる。

「自分を無用の存在とみなした男が1人2人の道連れとともに京から東の方へ下っていく。道を知っている人もおらず、迷いながら行った。三河の八橋というところに着き乾飯を食べる。沢には杜若が咲いており、そこで「かきつばた」の5文字を織り込んだ旅の気分を変え詠みなさいと言われ、詠んだ歌は慣れ親しんだ妻を都に置いて旅をして来たことに思いを馳せる内容であった。その和歌を聞いて、みんな泣いてしまった」

一方の「仁勢物語」では、三河の八橋が岡崎に変わり、旅籠に立ち寄って食事をする。そこで「かきつへた」の5文字を織り込んで歌を詠みなさいと言われ、詠んだのは徒歩の旅を連れ立って昨日も今日も続けてあちこちめぐり歩く旅であることよという狂歌だった。これを聞いてみんな笑った、というものになっている。
伊勢物語」には都から来た貴族たちが旅先で感じる心細さや侘しさが表現されている。一方の「仁勢物語」では旅籠で食事をする庶民の姿が描かれている。贅沢ではないが侘しくもない。

近世の人々にとって古典文学は、読書や研究の対象のみならず、創作の材料でもあった。二次創作には既存の作品が様々な形で創作の素材源となること、つまりある作品を読んだ人間が別の新たな作品を作り出し、また新しい読者に読まれていくという循環が見出せるのだ。