偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

私の痛み、誰かの痛み

「カミングアウト・レターズ」
RYOJI+砂川秀樹
太郎次郎社エディタス

人は誰だって、自分の見ているもの、見えているもの、見ることのできるものを全てだと思う。その視野から零れ落ちたものは「異端」や「異常」なものとして認識され、切り捨てられる。
例えば男は女を好きになること、女は男を好きになること…体の性と心の性は生まれつき一致していること、異性同士で家庭を持つこと。
これが長い間恐らく人々の目に「見ていた、見えていた、見ることのできる」ものだっただろう。
私は「カミングアウト・レターズ」を文芸サークル会誌での書評欄で取り上げるということで読んだ。本書はゲイやレズビアンの子どもたちが親や先生に自らのセクシャリティをカミングアウトした手紙を集めたものである。読んでみると、これが結構良いことを書いている。市井の人々の方が、明敏に社会の矛盾や欺瞞を見抜いている。
以下は私が読んでいて、気に入った箇所である。


「ただ結婚して子を生し、家庭生活を営んでいるというだけの理由で、そのかけがえのなさを感謝するだけでなくて、なんだか偉そうにしてしまう。人ってそういう愚かで傲慢な部分があるでしょう。でも皆んな与えられた生の意味を必死に生きてるだけ。それを忘れると、心が貧しくなる」


「皆んな与えられた生の意味を必死に生きてるだけ。それを忘れると、心が貧しくなる」
セクシャルマイノリティーやLGBTと仰々しく言う必要はここではない。ただ「必死に生きてるだけ」。
私はレズビアンであるけれども、こうした捉え方は好きだ。男や女、日本人やゲイ、レズビアン…といった無数のラベルを剥がしてみれば後に残るのは「人間」であるということのみだ。そこから私たちはなんと遠く複雑なところまで来たのだろうかと思う。
私は今の社会が想定する「普通」の人間ではないだろう。幸せになるためのハードルはもしかすると高いかもしれない。


「少数派であることを実感する社会の中で生きて、痛みを忘れないでいたい」


これはゲイの男性が母親へ宛てた手紙の一節である。
確かに、今の社会で生きていくことは痛みを伴うことだ。私の痛みと誰かの痛みに聡くあること。
マジョリティ、マイノリティ問わずこの明敏さを持たない人々が最も不幸であるだろう。