偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

ブッダのことば

ブッダのことば スッタニパータ」
中村元
岩波文庫

ブッダの真理のことば 感興の言葉」
中村元
岩波文庫


生きることは難しい。
なんてことを最近は思う。職業柄色々な人と接する。業務の内容よりも、相手との人間関係の方が辛く感じることが多い。
あぁ、人間ってなんだろうな。
生きることってなんだろうな、とその中で考えることがある。時には、私のことを誰も知らない、そして日本語すら通じないような遠い国に行ってあらゆるものを「断捨離」してしまいたくなることがある。
生きることは、多分私を縛ることでもある。それが時には辛くなる。
芥川龍之介だったか…「例えば水に顔をつけたことのない人に、泳げというと誰もがそれは無理だと言うだろう。だが、私たちはいつこの人生を生きることを学んだのだろう」という文章をどこかで見て、それから忘れることができないでいる。
生きることは難しいが、それを乗り越えるためのテキストはあってないようなものだ。宗教や哲学は誰のため、なんのためにあるのかと問われれば、ひとえにこの葛藤と曖昧さにあるだろう。

今年は東洋思想を勉強しようと私は思っている。その中で仏教も勉強したいと思っていて、岩波文庫の「ブッダのことば スッタニパータ」と「ブッダの真理のことば 感興の言葉」を買って読んだ。どれも平易で簡潔な言葉の数々である。その中から、私が個人的に気に入ったものを抜き出して、「正解のない生」について気ままに考えてみようと思う。


あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きた方がよい。命あってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。


私はようやくというか、社会人になって2ヶ月が経った。色々と思うことはある。たった1年前までは緩い学生だったなぁとか、働くことは大変なことだなぁとか、まあ色々ある。
来年春に入職の就活生が職場に見学に来ることもある。
就活自殺は別に珍しいことでもなくなった。どうしてこんなことが起こるのだろうかと思う。
自殺は決して悪いことではないと一方では思う。その人にしか分からない辛さや苦しみがあるだろう。それを他人が一般的な価値観や正論のみで裁断できて決着できるほど易しくはない。
だがそれでも思うのだ。
「生きていなければ、やはり何もできない」
生命あってこそ、とはよく言う。こういう感覚というのは、恐らく本当に生死の瀬戸際に追い詰められた人にしかその重みは分かるまい。摂食障害で死にかけた身としては、「生きてなきゃ何にもできない」というのは骨身に染みて分かったことだ。
悪いことも善いことも、できやしない。
「生きよ、生きた方がよい」
ブッダは更に言う。


立派な人々は説いたーー(i)最上の善い言葉を語れ。(ii)正しい理を語れ、理に反することを語るな。(iii)好ましい言葉を語れ。好ましからぬ言葉を語るな。(iv)真実を語れ。偽りを語るな。


だが、こうした真理を取り巻く「生」というのはあまりにも苦と迷いに満ちている。人は往々にして、難解なものよりも分かりやすくそして自分にとって都合の良い言説や言葉を好む。
人の病理であり、本能の一種ともいえるだろう。「最上の善い言葉、正しい理、好ましい言葉、真実を語ること」。この生のさなかにあっては、一抹の虚しさを、今の私は感じる。
果たしてそれを、今の私は知覚できるのだろうかと。


物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世に生存に戻って来る。
しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。


生きていればその終わりは死として成るわけだが、それは一回きりで終わるものではない。この「絶え間のなさ」が生の苦痛の本質であり、一切衆生の苦であるだろう。
世俗の欲求を捨て、些事に執着しないこと…そしてその全ての虚しさを知ること。それが「死を捨て去る」一歩であるだろう。


ものごとは心に基づき、心を主とし、心によって作り出される。もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足跡に車輪がついていくように。


何かでこんなものを読んだ。
「人は誰のことも結局幸福にも不幸にもしない。どんな言葉でも、その受け取り方によって幸福にも不幸にもなる。人は自分の心によって幸福にも不幸にもなっているのだ」
私は最近、特に「人は心である」と感じている。天国も地獄も遠い彼方にあるのではない。私の心の中にある。
「もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足跡に車輪がついていくように」
平易でこれ以上ないほど分かりやすい言葉だが、「何が私たちを苦しめ、救うのか」ということを顕らかにされているように思える。


学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するだろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。


学びというのは、必ずしも実利に結びつくものではない。だがそれは生きる力とはなってくれるだろう。それが真理と繋がる唯一のものともなるのだろう。
特別な言葉遣いはここにはない。だが胸を打つ。そして考える。
「学び」とはなんだろうか。「ことば」とはなんだろうか。そして「真理」とは?


もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ「愚者」だと言われる。


これはなんとなく、ソクラテス無知の知に相通じるものを感じる。自分の未熟さや愚かさを知ることは、賢くなることよりも大切なことなのではないか。自分が他よりも優れていると誇ることは虚しい。誰かを見下しても、生きることに寄り添う苦痛や虚しさは癒されないだろう。
私は愚かであることを知ること。
不思議とそこには癒しがある。そこから、ブッダの説く真理へと繋がる道は開けて来るように思える。