偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

あなたはどんな人ですか?

「女性同性愛者のライフヒストリー
矢島正見 編著
学文社

私は定期的に、セクシャルマイノリティーの勉強をしている。これには2つの理由がある。まず一つ目は、私自身がレズビアンであるということ、2つ目は性の在り方や多様性、そして学問上における議論や当事者の思いというのは実に様々でそういうものを定期的に「アップグレード」して自分の中に入れておかないと「ついていけない」からだ。
何に「ついていけない」のかは多分こうした微妙な部分に聡い人でないと中々分かってはもらえないだろうが、何かを変えること、訴えるためにはそういう一見「無駄に見える鋭敏さ」というのが不可欠なのだろうと私は思っている。そういうわけで、定期的にセクシャルマイノリティーやクィアスタディーズなんかの知見を勉強している。

さて、そんな中で見つけた本が今回取り上げる矢島正見著の「女性同性愛者のライフヒストリー」だ。これは随分前の刊行で、1999年に第1版目が刷られている。このことがどういう意味を持つのか、多分ほとんどの人には分からないと思う。
WHOが同性愛を精神疾患のリストから除外したのはわずかこの5年前の1994年で、当時の文部省が性不良から削除したのは翌年の1995年のことだ。未だ偏見の残る時代に、女性同性愛者(レズビアン)に、自らの生い立ちや性やセックスについて語ってもらい、そのライフヒストリー(口述個人史)を活字化するというのはかなり稀なことだったと感じた。

本書は14名のレズビアンの方たちが幼少期から現在までを自らの口で語り、赤裸々に過去の体験を明かしていく。当人たちの背景は実に様々でバラエティに富んでいる。どちらかといえば文系で、部活も体育会系か芸術系に二分されている。成績は比較的良い人たちが多く、あまり女の子らしい趣味というのに幼少期から興味を持つ傾向が少ない、というような一致点は散見されるが特に「レズビアンになる」ような土壌や素養らしきものは見当たらない。別にレズビアンは「なる」ものでもないから当たり前なのだけれど。何かの本で「私は10年かけてレズビアンになった」という発言を見て奇妙な感覚になったものだ。別に「なる」ものでもない。かといって、そのように「生まれつく」わけでもないし、気がついたら自然とそうなっていた、というのが一番近いかもしれない。つまり、意識的になろうとするものではないということだろうか。
少し脇に逸れたが、もう一点興味深かったのは自分がレズビアンであると意識した時やそのきっかけに触れた文化的なツールだ。こちらは多くの人が1990年に発刊された「別冊宝島 『女を愛する女たちの物語』」を挙げ、自分以外にも同じような人たちが大勢いると慰められたというような声が多くあった。書籍というのに時代を感じる。これが今の時代に全く同じものを編んだとしたら、インターネットという答えが9割になりそうで面白い。

ただ、ひと言に女性同性愛者/レズビアンといっても当人たちの自分に対する受け止めや定義というのは様々で、明確に自分を「レズビアンです」と言い切る方もいれば「レズビアンとは言えない。バイセクシュアルかも」や、「そもそも自分のことを女性としては思えない、かといって男になりたいわけでもない…」というような方もいてタイトルの女性同性愛者にとどまらない部分も散見される。
こうした点について、私は大いに結構だと思っている。ライフヒストリーの終盤で必ず「自分は何者か?」というような項が入るのだが、私は疑問を感じた。なぜ異性愛者は自らの在り方、特にセクシュアリティという微妙な部分について規定する(させられる)ことがないのに、同性愛者などのセクシャルマイノリティーは厳格に規定や定義できなければならない、というような風潮があるのだろうかと感じた。

「あなたはどんな人ですか?」

性別やセクシャリティを問わず、こうした問いに明朗にそして自分はこうであると断言できる人はいるだろうか。中にはいるかもしれない。だがその答えというのは往々にして変化していくものだ。むしろ変化していかなければおかしい類のものでもあるだろう。それなのに、セクシャリティの在り方は生まれた時から一貫していなければおかしいかのような扱いを受けている。
「私女だけど、女が好き。でもレズビアンじゃない」
こういう在り方があってもいいじゃない、と私は思うわけだ。

全体としては非常に面白く、また一般人の個人史というのを見る機会もそうないから他人の人生をちょっと「覗く」ようでそういう好奇心も刺激された。私が印象に残ったのは、バイセクシュアルの女性のライフヒストリーで、彼女は以前付き合っていた外国人男性からHIVを移されていた。彼女はこの点について、「外国人と付き合ったから」ではなく「コンドームを付けなかったから」というところを強調している。そして、以下のように率直に語るのだ。

「これからは、恋愛に対して臆病になると思います。というのも、実は私はねHIVに感染しているからです。だから、どうしてもこれからは相手が男であろうと女であろうと、本気の人でないと付き合えないわけです。……そういう人が現れたら、もちろん幸せなことかもしれませんが、できれば現れて欲しくないと思っています。そんなお互いにゾッコンになる相手が現れてしまったら、これからもっと辛くなるので、たとえ性的には欲求不満になったとしても、いっそのこと、そういう人はいらない、というのがいま現在の心境です」

そして追記で彼女は過去の自分のライフヒストリーを振り返りつつ、自らの甘さを笑う。だが最後に印象的な言葉を残すのだ。

「私は、幸せな人間だとは思いませんが、幸せな患者です」

すでにこの時(1998年)には、免疫力が健常者の6分の1程度にまでなっていたが「ゴキブリ並の生命力」に当人も驚き、「当分くたばりそうにない」、「だてに高い薬は飲んでいない」と語る。生きていく上で年々HIVの恐ろしさは感じると語っているが、「自分の蒔いた種」であることを受け止め、「苦しみを飲み込んでいる」と終始飾ることのない調子であった。


私が本書を読みながら思ったのは、ここに書いてあるような様々な設問から端を発したであろう語りというのは、結局本エッセイのタイトルにもあるように、「あなたはどんな人ですか?」というようなものであるということだ。
性の在り方を多様でいい、昨今だとダイバーシティだのと格好良く言うことは簡単だ。今は本書が刊行されて約20年ほどが経ち、性教育の中でも同性愛が取り上げられるまでになっている。私たちは口では個人の自由な在り方(セクシャリティも含めて)を認め奨励しつつも、社会制度の上では男女と生殖に結びついた強固な性意識と異性愛の基盤の上に立っている。
このことの意味はなんだろうか。
そしてその土壌に立った上で、「あなたはどんな人ですか?」との問いかけはどんな意味を持つのか、そしてどう答えることができるのか。
本書の中で、「レズビアンは自分の個性の単なる一つ」と述べる女性が出てくる。

「『レズビアンである』ということは、自分の個性の一つに過ぎないと思っています。『楽器が好き』とな『寿司が好き』とかいうことと、『レズビアンである』ということとは、基本的に同列の事柄だと思っています。ただ、『楽器が好き』という個性よりも『レズビアン』という個性の方が、アピールするのが難しいと思います」

なにがこの個性のアピール、というか在り方を難しくさせているのか。
それがなくなったときには、恐らく「レズビアン」という単語も過去の古い単語の一つとして意識されるようになるのではないだろうか。