偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

ヨーロッパにおける人文学

「人文学(人文科学)」とは、人類が創造した文化を広く対象とする学問である。今日では一般に社会科学や自然科学とされ哲学、文学、歴史学など大学の教養課程や文学部などで教授される学問となっている。よって、人文学は抽象性を帯びている学問と一般に受け止められている。それ故に人文学は社会にとって役立たないもの、また社会科学や自然科学とは対置される性格のものと考えられている。日本ではこうした理解のために、人文学系の学部や学科に対する圧迫にも繋がっている。

一方、人文学の発祥の地であるヨーロッパでは、日本で今日理解されているような単純なものではないことが明らかとなる。人文学を社会科学、自然科学と峻別するような姿勢や、教養知、実用知と区別する傾向も古くからあったものではない。ころらは近現代の所産である。
例えば哲学は、人文学の一分野にとどまらず、自然科学を含む全ての学問の上に立つものであった。こうした人文学の起源は古代ギリシャまで遡るを古代ギリシャ文明の中で哲学、歴史、文学、美術、数学などの諸分野で創造されそれらの英知が、その後のヨーロッパ文明の知的基礎を作ったのだ。古代ギリシャの文化的遺産はローマ帝国を経てヨーロッパ中世世界やビザンティン帝国に引き継がれ、その後のルネサンス運動によってヨーロッパ全土において復興されていく。また中世ヨーロッパのキリスト教世界において「大学」が誕生したが、それまで神学研究や聖職者養成に重点を置いていたが、ルネサンス以降に人文学的研究と教育に重点を置くように変化していった。近代ヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマに関する学問はキリスト教の影響が薄れるのと並行して、「古典学」として特に19世紀以降発展していく。

古代ローマ社会にあっても、古代ギリシャ以来の修辞学を核とする人文学的教養が受容され、特に帝国を統治するエリートたちに必須のものとされていた。また近代ヨーロッパ社会にあっては古代ギリシャ・ローマはそれ自体としては現実の生活に直接役立つものではなくなっていったが、「余分の学問」を学者以外で学ぶことができる人々は社会の中でも豊かな人々に限られていた。さらに、古代ギリシャ語とラテン語の習得を中心とする古典学が、大学前の中等教育段階での主要科目となったため19世紀に入ると、ヨーロッパの先進的な国々では古典学の素養を持つ人物が社会的なエリートとみなされるようになった。
古典学は、人文学の代表的な学問である。また古典学は、社会階層を区分する規範となるような機能を持たせる傾向が歴史の中で培われていく。実際に社会において優位に立つことができる社会的擬似身分的規範としての機能をヨーロッパでは古典学は持つようになった。このように、人文学は単なる机上の学問としてのみヨーロッパの中で存在してきたわけではないのであった。


a.後期ローマ帝国における教養
史家のサミュエル・ディルは西ローマ帝国最期の世紀を「才能と教養がこれ以上高い見返りを得た時代はほとんどなかった」と評した。後期ローマ帝国においては、官僚の任用に際して「教養」が大変高く評価された。当時の官僚志望者には修辞学の習得に最高の目標を置くローマの伝統的な文学的・文法的教育と、人文学的教養が要求された。逆にいえば身分に関わらず官僚という帝国の支配者層に入り込むことができたことを意味してもいる。「ギリシア・ローマ風の教育と教養は、地方都市の貴族だけでなく、生まれの卑しい者にも成功へのパスポート」となっていた。
同時代の官僚で「皇帝史」を書いたアウレリウス・ウィクトルに、後期ローマ帝国における教養の限界を見ることができる。彼は皇帝の絶対性を信じており、教養を持った皇帝の出現で帝国は理想的な状態に変わり得るとの信念を抱いていた。こうした考えは、あくまで帝国を導くのは皇帝であり、教養を持った官僚や教養そのとのではないことも同時に示している。教養は皇帝という絶対者と結びつくことによってのみ、大きな力を及ぼすことが可能になるのだ。ここに、後期ローマ帝国及び官僚のメンタリティが反映されているのだ。そして、教養の効用と限界も露わになるのである。


b.近世フランス、実業家と教養
18世紀のフランスは前世紀までの不況を脱し、資本主義世界経済における中核地域を形成するに至った。こうした経済の発展は近世フランスの実務教育へと道を開くことになる。職業訓練学校というような、充実した組織の発展を促したのである。実務教育の前例としては17世紀にすでにプロテスタント系の学校で見ることもできるが、全国的に展開し国家プロジェクトとしても進行するのな18世紀のことである。
一方、18世紀後半に商人の中でもコレージュ(大学の下にある中等教育機関に相当するもの)を出て教養を身につけ、「文芸共和国」の仲間入りをしようとする人も現れた。ここでいう商人とは、国際貿易商人であり、貴族や聖職者とは異なる社会エリートである。ここからは、商人社会における人文学、教養について概観してみる。
まず商人社会の初等教育及び教育の中心は実務教育である。1673年の商事王令編纂にも関わったサヴァリは商人の実務教育について、子どもが15歳になるまでに自分の能力に自信を持つ教育を施さなければならず、7歳から8歳までの間に手習いと算術を学ばせるよう勧めている。また語学(イタリア語、スペイン語、ドイツ語)の習得も強調し、フランス史や外国史、旅行記などの書物を読ませることも説いている。一方で、この他に役立たない学問は身につける必要はないとも書いている。
さて、こうした商人たちの教育に人文学的な教養は不必要なものだったのだろうか。伝統的な商人の教育モデルは実務教育であり、ラテン語や修辞学など本格的な人文学教育は不必要であった。ただ商人は自らの社会的な地位上昇も視野に入れ、その戦略の一環として人文学的教養を身につけるべく子どもたちをコレージュへと送り込むことになっていく。ここでは道具としての人文学教養を見ることができる。
こうして教養を身につけた人々は、自ら懸賞論文を提出するなど学問の世界に関心を示すようになっていった。1783年にミュゼ・ド・ボルドーが創設される。これはジュモーの呼びかけの元に創設されたが、彼は当時のボルドー社会において商人の重要性について認識しており、創設当初より彼らを取り込むことを考えていた。ミュゼにおける講義の特徴は会員に対しては無料で行われ、親は子どもに受けさせる講義をミュゼが提供するものの中から選択することができた。ミュゼにおける教育は、フランス語、外国語、数学、物理、化学であり、外国語と自然科学の教育に重点が置かれた。自然科学の分野では機械工学や天文学、造船術、航海術などが開講されていた。ミュゼにら附属図書館も設置され一般にも公開されていたが所蔵図書のうちおよそ4割が文学作品であり、3割が自然科学に関するものであった。実践を重視していることは明らかであった。またミュゼの教育の特徴として、演劇や音楽の授業が行われていた点を挙げることができる。ミュゼは商人社会の要望を反映し実践的内容を重視しつつも、音楽や芸術など教養に属するものにも力を入れていたのである。
商人たちはミュゼの教壇に立つことはなかったが、様々な役職を担った。だが注目すべき点は、文化的な活動を積極的に行ったということである。詩や小説、コンサートや演劇などの催し物にも率先して参加した。一方で彼らは自らの生業については多くを語ろうとはせず、そうした世界からは距離を置き、芸術や学問の世界を楽しむことを望んでいた。18世紀の富裕な商人たちは伝統的な教育モデルから少し逸脱した教養を身につけ、知識人たちが集う世界へと足を踏み入れたのである。
1793年にミュゼはアカデミーと共に廃止されたが、ミュゼそのものは1808年にソシエテ・フィロマンティック(科学協会)として再建される。そうした変化の中で商人社会は緩やかに国民教育のなかに統合されていく。
ソシエテ・フィロマンティックはミュゼを引き継いだが、あくまで商業一般に関する専門教育機関であり、かつてのミュゼのような文学や自然科学の世界と実務知の融合といった独特の商人文化はなかった。19世紀後半になると、教育の変化と共に、そのような世界は消滅していくのであった。


c.近代ドイツ、啓蒙主義と人文学
19世紀はドイツにとって、「歴史の世紀」といわれている。エルンスト・トレルチュは「我々の認識及び思考が根本的に歴史化した」と表現した。彼は歴史主義を歴史学固有の問題であるだけでなく、文化現象一般に及ぶ問題と理解した。ここで問題となる人文学知も歴史化したことになる。こうした問題意識を共有し「歴史主義の克服」を目指して争われた議論を歴史主義論争の名で知られている。またハルトヴィヒは叙述の対象でしかなかった歴史が研究の対象及び学問的考察の対象として認知される過程を「歴史の科学化」と呼び、その出発点を啓蒙主義時代に見ている。
哲学者のヴィルヘルム・ディルタイは1901年の論稿冒頭で、「歴史の科学化」の経緯について以下のように要約している。
「非歴史的と批判されることもある18世紀の啓蒙主義は、歴史に対する新しい理解を提示した…いまや初めて普遍史は経験的考察そのものから得られる一つの連関を保持するに至った。この連関はすべてのできごとを理由と帰結に従って結合する点において合理的であり、所与の現実を彼岸的な表象によって越え出ることすべてを拒否する点で批判的に優れていた。…人間生活のうちにある連関についての、経験に基づいたこのような新しい理解がはじめて、自然認識と歴史の学問的結合を可能にした」
引用の「普遍史」は、キリスト教独自の救済史を指している。神の天地創造で始まり、この世の救済をもって完結する目的論的な歴史叙述である。だが時代の経過とともに、救済史のモチーフは形骸化していく。宗教的な合理性は生活領域から後退し、科学的な合理性に取って代わられていったのだ。19世紀は「歴史の世紀」と呼ばれたが、同時に「科学の世紀」とも呼ばれている。啓蒙期には、合理性の主導権が転換していったのだ。科学的な合理性は特定の現象を生起した因果関係を現世的に説明することを目指す。社会現象や文化現象をその対象とする時、原因究明は過去に遡り、歴史認識を得ることを余儀無くさせる。こうして、文化的社会的な諸科学において歴史の考察が不可欠になったのだ。前近代の学問体系の中では学問であるとみなされていなかった歴史が、学問の一分野として認知されていく。歴史の科学化は科学化の歴史化とも表裏をなしていったのである。前近代の歴史は非学問的、雑学的な教養として放置され続けてきたが、それは歴史が1回限りの特殊な知識と考えられてきたからである。だが、「歴史の世紀」を迎えて歴史学は「思考する頭脳すべてのためのもの」となったのである。
科学的合理性が浸透し始めた時代には、現状を構成する要因の解明に、今後起こりうる時代の予見を期待し、それに対する対策を示すこと、そして明晰な判断の提供が科学に期待された。歴史学においては、文化・社会現象の領域においてそれが期待された。啓蒙期に歴史研究が盛んになったのは社会に有益な知識をもたらすと考えられたからである。社会貢献という観点から、歴史学は意義づけられたのである。
啓蒙主義は歴史に対する新しい理解を提示した。歴史学は学問の確固たる一分野であるだけでなく、学問的考察に欠くことのできない分野となったのである。


d.東スラブ正教世界、人文学の受容と葛藤
オスカー・ハレツキはヨーロッパ精神の根本的な2つの要素として、「キリスト教的伝統と人文主義」を挙げ、またクシシトス・ポミアンも「人文主義文化は15世紀から19世紀にかけてヨーロッパのエリートの共有財産になった」と述べた。
ポーランドルネサンス宗教改革を経たヨーロッパを象徴する人文主義をいち早く受け入れ、高度な教育システム及び政治文化を形成するのに成功した。一方で、ルネサンス人文主義などの知的伝統を共有しなかった東スラブ(ロシア、ウクライナベラルーシの諸民族)はいかに、こうした「ヨーロッパ的なもの」と向かい合ったのであろうか。
ルネサンス人文主義は、科学革命など知の体系の組み替えを進め、普遍的な大学教育を頂点とした高度な学校システムを発達させた。だが東スラブの正教世界で形成された知的態度は、ビザンティンの静寂主義の伝統を汲んだ修道を理想化する正教的精神生活では、永遠に変わらない「静寂と安寧」を希求し「すべからく書物を読む必要などないし、書物全体を読む必要もない。選りすぐりの厳格に限定された範囲のテクストによって己れを癒すことが必要である」というのが基本的態度であった。こうした中にあって、学校教育も未発達であり、宗教及び精神生活や世俗生活上どうしても必要とされる知識習得は外来書や翻訳による読書での自己陶冶を通じて行われた。書物や学問に対して猜疑的で、ラテン語による学識を宗教的異端と同一視する心性、ラテン文化(人文主義)への拒絶など、独自の知的態度を生み出していた。
17世紀はロシアにとって1つの転換点であった。ロシアの西欧化は18世紀初頭のピョートル大帝の諸改革から始まるが、既に17世紀を通じてヨーロッパ文化との関係を深めていた。アントニー・フロロフスキーはこの点について、端的に述べている。
「17世紀末の数十年間と18世紀初頭とは、精神生活領域における特殊性をことごとく有する西欧文化世界とのロシアの接触の問題が、ロシア文化発展の基本的構成要素の1つとなった時代であった。独自性と正教信仰を遵守してきたモスクワ・ルーシ従来の障害物が倒壊し、ロシア人が西欧の光と文化をそのあらゆる現れに渡って知るだけでなく、それらの特質・特徴を知覚し習得するための幅広い可能性と展望が開かれた」
ピョートル大帝による科学知・技術知導入にとどまらず、精神世界及び宗教世界にまで及んでいたことを指摘しているのである。こうした原動力になったのはウクライナ人文主義者(キエフ学者)であった。だが非合理的なモスクワを軽蔑するキエフ教養主義と、カトリック的なラテン文化に侵されたウクライナ人文主義者に不信感を抱くモスクワとの対立は根深かった。こうした軋轢を持ちながらも、ウクライナ人文主義者たちはラテン文化…ヨーロッパ知的体系とロシアの媒介する役割を担った。
こうしてもたらされたラテン文化は、ロシアの西欧化にとって大きな影響を与えたが、それがロシアの政治文化を支えるエリートの地位を正当化する教養や文化資本として機能するほど定着したかどうかは別問題である。ピョートル教会改革以降、ラテン語が必須化され聖職者身分にラテン的知識の最低限の習得が義務付けられた。一方で、貴族身分の場合はラテン的趣味の書物収集や文芸趣味に財や能力を費やすものは僅かであった。「人文主義は、外国人や西部国境地域の新しい臣民たちの崇拝物であって、他方ラテン教育に対する文人社会の拒絶は継続的で広く見られたものであった」。こうしたことは、ロシアにおける近代市民社会形成の弱さに通底するものとも言えるのではないだろうか。