偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

ラ・ボエシ「自発的隷従論」

図書館の帰りに、書店に寄ってなんとなくふらついていると面白そうな本を見つけた。エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著の「自発的隷従論」だ。不勉強な私は初めてその名前と著書を知ったが、ちくま学芸文庫から出ていることもあり買って読んでみることにした。素朴な問いから、人間の本性、政治のあるべき姿…客観的かと言われれば疑問符はつくが興味深い良書であった。古今東西の逸話や史実に、圧政や圧政者の構造的悪に迫っていく様は、硬い論文というよりも、一つの文学作品としても読むことができる。


なぜ多数の人々は、たった一人の圧政者に隷従するのだろうか?「自発的隷従論」の中で、ラ・ボエシは「これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧政者を耐え忍ぶなどということがあり得るのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである」と書いている。その疑問を出発点に、本書は考察を進めていく。

ラ・ボエシは「自由」こそが人間の本性であると説く。「自由は自然であるということになるし、同様に、私の考えでは、われわれは生まれながらにして自由を保持しているばかりでなく、自由を保護する熱情をも持っているのである」。
このことに対する根拠として、ラ・ボエシは動物でさえ自由を求めて抵抗すること、自然が人間全員を同じ形に作ったこと、の2点を挙げている。この2点目について、なぜ「自由」という命題が導き出されるのか。自然が同じ形に作ることによって、私たちがお互いを愛するように仕向けたのである。だがこのことは各人が平等な能力を持つことを意味しない。そして、それ故に自然は人間相互の扶助や連帯の必要性を高めたのである。人間は外見上の相似性と、個別的な差異故に、仲間となれるのだ。よって、人間の原初的な自然状態においては、他者を隷従させる欲望な発生し得ず、各人は自由であるのだ。

だが、なぜこうした「自由」の本性を放棄してまで、人々は隷従してしまうのか。この問いが、本書の中でラ・ボエシの繰り返し問う命題である。
隷従している状態とは、自由を自ら放棄するほど本性を歪められているといえよう。自発的隷従とは、「自然がそんなものを作った覚えはないと言い、言葉が名付けるのを拒むような悪徳」であるのだ。
そして、ラ・ボエシな人間の本性 (自然)を二重に解釈しようも試みている。つまり、人間の本性とは「習慣」ではないのか、と問いているのである。習慣づけられるという性質こそが人間の本性の一部なのではないか。「人間においては、教育と習慣によって身につくあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものといえば、元のまま本性が命じるわずかなことしかないのだ」。ここでラ・ボエシは「自発的隷従の第一の原因は、習慣である」とし、人々が隷従するのは、「人間が自発的に隷従する理由の第一は生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているから」であると指摘する。どのような隷従も、自発的な隷従以外はあり得ないのだ。
ラ・ボエシに独自なのは「生まれつき」の状態においてすら、「習慣」の影響下にあり、そのような環境を本性と取り違えるということを喝破しているところである。
人間は、本性と区別できないほどに一体化した習慣によって、隷従の悲惨さを認識できないまでに目を曇らされている。

人間は、自然状態においては同胞に対する友愛の念によって、互いの自由を尊重するものである。だが支配者は、その地位につくとこのような善や自由を喪失する。民衆が隷従を自然状態と取り違えるように、圧政者は自らの横暴を生得的な権限のように錯覚する。
だが支配は、圧政者の及ぼす力によってのみ成立するものではない。「その者の力は人々が自ら与えている力に他ならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない」。
ラ・ボエシによると、圧政を中断させるのに暴力的な抵抗は必要ない。圧政者は民衆が何も与えないことによって自壊する。「もう隷従はしないと決意せよをするとあなた方は自由の身だ。敵をつき飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、自らの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう」。
ここにあるように、ラ・ボエシが勧めるのはあくまでも不服従という消極的抵抗である。だがこうしたことが簡単ではないことも、ラ・ボエシは分かっていた。支配は主体と客体の二項からなるのではない。被支配者でありなかまら、支配者でもある存在、甘い汁を吸う存在が圧政を維持する機能を果たしているのである。これをラ・ボエシは「小圧政者」と呼ぶ。「結局のところ、圧政から利益を得ているであろう者が、自由を心地よく感じる者と、ほとんど同じ数だけ存在するようになる」。このように階層化された中間層は体制の変革ではなく、むしろ強化を望むのだ。故に、一者による支配体制は、ときに盤石の安定性を獲得する場合がある。

だが、ラ・ボエシは圧政者とその共謀者たちの悲惨な末路を様々な古典や史実から暴いていく。「ローマの皇帝の中には護衛のおかげで危険を脱した者よりも、自ら従える弓兵に殺された者の方が多いのは明らか」であり、「ほとんどの圧政者は大抵、彼らの最も気に入った連中によって殺された」のだ。またその共謀者たちも、幸福ではない。

こうした圧政者や共謀者が不幸なのは、彼らの間に「友愛」が成立しないからだ。ラ・ボエシによると、友愛とは善人同士の間によってしか成立しえない。そして、互いに対等な者同士の信頼関係の上にしか成立しないものだ。「圧政者は決して愛されることも、愛することもない」のである。「圧政者は全ての人の上位にあり、仲間が全くいないので、すでにして友愛の領域の外にいるからだ。友愛は平等の中にしか真の居場所を見出さない。友愛は片足を引きずるのを好まず、常に左右の均衡を保つ」からだ。
ラ・ボエシは最も重要な徳を「友愛」とし、成員同士を結びつける絆とみなしている。「友愛とは神聖な名であり、聖なるもの」であるのだ。

ラ・ボエシが想定する君主と臣民の正しい関係とは、「隷従」のような極端な形態ではない上下関係、忠義や敬意を伴う服従関係である。例えば、幼年時の両親との関係や、優れた知恵と高潔な人格を示した人物との関係がそうである。ラ・ボエシは特や勲功に対する敬意と感謝それ自体は、「理性にかなった態度」であるとラ・ボエシは書いている。双方向性によって、君主と臣民の関係は結ばれるべきなのだ。
君主は臣民によって支えられ、臣民は君主の善政によって平和と安全を享受する。臣民の自由を君主が侵害し始めたら、服従を止めればよいのだ。ただ、君主と臣民のいずらもが、一定の権利を享受すると同時に、一定の義務も負うのである。ラ・ボエシのいう「公正さ」は、社会的役割に応じた他者への奉仕であり、これを可能にするのが「友愛」である。
「徳を愛し、勲功を敬い、善とそれが生じた原因に感謝し、ときには自分の安楽を犠牲にして、敬愛する相手、敬愛に値する相手の名誉や利益を高めるのに努めること」こそが「友愛という公共の義務」なのである。

だが、ラ・ボエシは圧政者もまた同じ人間であることを喝破する。「そんな風にあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、からだは一つしかない」。
ラ・ボエシの生きた時代は、絶対王政全盛の時代である。だが政治をあくまでも対等な人間同士の関係として構想してみせた。その先見性は現代になっても色褪せることがない。