偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

シモーヌ・ヴェイユを読んで

本との出会いは、人との出会いに似ているようなところがある。連休最終日に図書館へ行って、いつものようになんとなく哲学の書棚を巡っているとシモーヌ・ヴェイユを見つけた。以前より読者の方から名前を聞き、勧められてもいたので「これは!」と思って手に取って借りた。そしてその後書店にも行ったのだが、そこでもヴェイユの「恩寵と重力」を見つけ、これも購入して早速読んだ。
正直、今の私にヴェイユの広大な思想や愛を理解できているとは思わない。
私は最近、あらゆる思索や活動のエネルギーというのはなんだろうか…と考えていて、それは「愛」なのではないだろうか。私たちが「愛」と呼ぶもの、そうとした名付け得ないものなのではないかと私はぼんやり思っている。
端的にLoveと表現できるものでも厳密には愛情と表現でいるものでもない、原初的なエネルギーである。
「愛は慰めではない。光である」というのはヴェイユの言葉だ。その後で彼女は「愛は、私たちの悲惨のしるしである」とも書いている。
私はここに、「愛」なるものの広大さそして捉えがたさを垣間見た気がする。

私たちは生きているが、その生は矛盾と虚飾に満ちている。それは「悲惨」である。
古今東西、様々な人が様々なことを説いているが「重力と恩寵」を読んだ後に少し考えてみた。そうすると、ある仮説が私の中に頭をもたげてきた。

「彼らは一様に同じことを説いている」

最初の問いに、1.なぜ私たちは生きるのか、があった。その次の問いに、2.いかに生きることができるのか、があった。そして最後に、3.いかに生きるべきなのか、という問いが結ばれた。
「なぜ」から、「できるのか」そして、「べきなのか」への帰結に至る。異論はあろうが、どんな哲学者も文学も核となる思索は根本的には同じものであると考えている。そこでは宗教と、哲学は厳密には分け隔てられていないとも思う。
ヴェイユの思索と言葉も、どこか宗教的な色彩を帯びている。

「裁いてはいけない。あやまちはすべてが同等なのだ。ただひとつのあやまりだけしかないのだ。すなわち、光を受けて生い育つという能力を持たぬこと。この能力が失われたからこそ、あらゆるあやまちが出てくるのだ」

裁いてはいけない、というのは聖書の言葉だ。
生きること、生き続けることもある意味一つの信仰の形を取る、取らざるを得ない…と考えてみる。私は不思議でならない。人が神という存在を求めるのか、愛を求めてやまないのか。だが今ならその理由が少しだけ分かる。
この世界には、明瞭には意識も知覚もできないが「大いなる流れ」がある。人知を超えたもの、老子が説いた「タオ」のようなもの、キリストが「神の愛」と説いたもの、ヴェイユが「恩寵」と読んだものが存在するのだ。
哲学者はそれを「真理」だと説いた。これらはすべて、私は本質的には同一のものであるとヴェイユを読み終わって感じたところだ。

生きるということと、この彼らが一様に説いていることは深く結びついている。
さて、私たちは「なぜ生き、どう生きることができ、いかに生きるべきなのか」。宗教と哲学に限らず、あらゆる思索や人間の活動はここに端を発していると思う。ヴェイユは簡潔でありながらも、本質を突くような言葉の数々を残している。

「恩寵でないものはすべて捨て去ること。しかも、恩寵を望まないこと」

「創造は、愛のわざであり、永遠に続くものである。あらゆる瞬間において、私たちが存在するということは、神の私たちに対する愛である」

「どんな愛情にもとらわれてはいけない。孤独を守ろう」

余分なものは捨てよ、そして求めることはしてはならない。求めた瞬間から、恩寵は恩寵ではなくなる。
存在することは、愛による。
シンプルなこの言葉の意味を、まだ私は正しく理解できているとは思えない。それだけ私は「恩寵以外のものを持ち」その上、「恩寵を望んで」いるからだろう。虚ろになるということは、全てを無くすことではない。空虚になるということでもない。そのことを、まだ私は本当の意味では知らない。
「孤独を守ろう」、力強い言葉である。人は孤独を憎む。特に現代ではその傾向が特に強い。見かけは孤独を癒す術はより簡単に得られるようになったように思える。こうしてなにがしかの作品を挙げれば、感想がつくかもしれない。そのことによって、私は束の間孤独でなくなるかもしれない。はたまたTwitterでも呟けばもっと癒されるかもしれない。LINEでもいい、メールでもいい、電話でもなんでも、闇を炎の灯りで削ってきたように、私たちは孤独を削る。
でもそこに何がある?その先に何がある?
私は最近こんなことを考えている。こうした一連の動き、自分の内部と外部の動きに虚しさや、何かが削り取られていくような感覚を感じている。削られているのは、また自分の手で削っているものはなんだろうか。

それは「孤独」であり、本質的な「愛」としか今は呼べないものなのではないだろうか。
だから、疲れる。虚しくなる。
だが私はヴェイユを読んで嬉しくなった。私たちは個として隔絶されている。この中にある孤独は徹底的なもので癒されることは死の瞬間までないだろうと思う。だから、生きることは辛く苦しい。
だがこうした宿命的な孤独と矛盾を抱えた私たちに対して、「彼らは一様に説いている」。
その発見が私は嬉しかった。生きていて良かったと思う瞬間は、私にとってはこういう瞬間だ。

余計なことはこれ以上書くべきでない。

 

参考・引用:「重力と恩寵シモーヌ・ヴェイユ 田辺保訳 ちくま学芸文庫

愛は慰めではない。光である。

創造は、愛のわざであり、永遠に続くものである。あらゆる瞬間において、私たちが存在するということは、神の私たちに対する愛である。

愛は、私たちの悲惨のしるしである。

どんな愛情にもとらわれてはいけない。孤独を守ろう。

奴隷の状況とは、永遠から差し込む光もなく、詩もなく、宗教もない労働である。