偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

「日本人の思惟方法」続き

2.人間結合組織を重視する傾向

a.人間関係の重視
日本人は人間の持つ自然な感情を尊重するが、これは人間結合組織を重視する傾向として現れてくる。また人間関係を重視することは、日本人が礼儀作法を重んじる行動形式にも顕著である。西洋においては人々の応対挨拶な簡易であるが、日本人は丁寧に行う。日本語においても敬語の用法が複雑豊富に発達していることもこの傾向を示す。


b.個人に対する人間関係の優越
人間関係を重視するということは、個人と個人との間柄や関わり方を重視することである。日本語においても人称代名詞が他の言語と比べて複雑である。日本人は代名詞を用いるたびに身分や親疎など人間関係を想起しなければならず、これは日本人の間にあって特に顕著である。
このような思惟方法においては、具体的な人間関係から抽象かれた独立的な個人に対する自覚が明瞭でないことも示す。よって、個人を等価値的な独立した存在として認める傾向が希薄である。日本語では一人称や二人称の主語を省略する。これは、日本人が行為的主体を客観的なものとして表現すること、また限定して明示しないことを好まない事実を示す。日本人は、個別的な独立の行為主体としての人格という意識を明瞭にしたがらないのである。また同じ関係で、数の概念も明瞭でない。単数と複数との区別が常に明示されているのではないのだ。対象を客観的にあるものとして把握せずに、人間関係において把握しようとする日本人の思惟傾向はこうした言語の特徴によってうかがうことができる。また日本人は西洋人に比べて客観的事物に関しては一つの単位を設定して計量測定する意欲を持たないが、人間的連関に関しては鋭敏であったのだ。興味深いことに、日本人の間では他の民族に比べて対人恐怖症の患者が多い、というような精神病の研究もある。これも個人に対する人間関係の優越性に由来するものかもしれない。
このような傾向が生じたのは、元々局地的な小農的な集団生活のもとで社会が発展していったことと関係があるだろう。そこでは人びとは緊密に結合して閉鎖的な人間結合組織を形成していく。そうした中で人々相互の直感的な理解が成立し、自己主張や意向を貫こうとすると相手を傷つけ、自分も損をする。ここから、個人としての自覚は十分に現れず個人の力に対する自信が弱かっただろうことがうかがえる。このような傾向は東洋人一般に見られることであるが、日本人においては特に顕著である。今日でも農村においては、氏神や土地の神を中心とした社会組織が小さく固まろうとする傾向が強い。この傾向が存続しているために、人間関係を重視し、個人よりも人間結合組織を過度に重視することになるのであろう。


c.有限なる人間結合組織の絶対視
日本人が重視している人間は、限定された特殊な人間結合組織に従属する意味での人間である。よって、日本人は人間に関してより広範な場所としての人間関係において利害的・感情的意義を有するものとして考察しようとする。日本が独自の社会を形成するようになった後でも、日本では主君や家族や部族のために献身的な自己犠牲を行うことが最高の徳とされた。また日本人の間では郷土愛が顕著であり、それも人間結合組織を重視する思惟傾向と関連があるだろう。こうした思惟傾向により、日本人の間では具体的な人間結合組織を超えた、より普遍的なもの(学問的真理・芸術)などのために命を捧げた例は少ない。犠牲を払って真理を求めるということは、当時の支配的勢力の意向と矛盾するのであれば望ましいことではなく、むしろ悪であるとさえ考えられていた。
仏教徒においても、人間結合共同体に対しては忠実であり、その限りにおいて道徳的であった。彼らは国家至上主義に対してさえも忠実であったのだ。閉鎖的な特殊な人間結合組織の利害というものが行動を決定させる主要な基準となっていたのである。


d.国家至上主義の問題
人間結合組織を重視するという傾向は、国家至上主義に至って頂点に達する。その萌芽は古い時代から存在する。日本が他の国々よりも優れた国であるという自尊心と誇りは、最初は自分の生まれた国土を愛するという情から発したものであると考えられる。
日本の優越的意義を認めようとする思想は、神国思想において特に大胆に表明されている。だが一方で、日本は粟散辺土であるという観念は平安時代末期から鎌倉時代に至る中世で顕著だった。こうした傾向は日本を優れた国とみなす傾向と矛盾対立しながら存在していたのだろう。
また皇室を中心として日本が発展してきたことが歴史的事実としてある。皇室と国民の間には敵対感が少なく、親和感の方が強かったようである。国民の間には、家族的な親和感がうかがえるのだ。このように、国家を重視する傾向は今日なお意味を持っていると考えられる。日本が戦後短期間で国際社会に復帰し、経済的にも有力な国家として蘇ったことは、こうした国家を単位とする思惟傾向や行動様式によるところが大きいであろう。「国のため」という意識を日本人が捨て去ることは困難である。
現代においては、部族や宗教を中心とする態度は過去のものとなった。だが世界を単位とする考え方はまだ現実化されていない。そんな中で国家を単位として行動する民族が覇者として登場した。世界国家が樹立するまでは、国家が単位としての意義を持つだろう。ここに、日本における国家主義の歴史的な位置づけの一端を知ることができる。


e.特定個人に対する絶対帰投
閉鎖的で、特殊な人間結合組織の形成を愛好する傾向は、特定の個人に対する絶対帰投の念となって現れている。日本人は人間結合組織を抽象的に理解し把握することを好まない。その代表者である個人的人格に即して理解し把握しようとする。家は生ける家長その人において、幕府は将軍その人として、国家は天皇その人として把握される向きがある。
一般社会における特徴としては、特定個人に対する絶対的随順の態度である。特定個人の権威を強調しようとするのである。


f.権威の尊重と外国崇拝
一般に権威というのは、国家や社会、団体によって特定個人に付与され、それが成員によって承認されている場合に成立する。人間関係が強固であり、安定している場合には権威が成立しやすい傾向がある。
宗教面から考えると、聖典の権威への絶対随順という点がある。また権威に対する絶対的帰投の態度は仏教や儒教を排斥した国学者の場合にも現れている。こうした特定権威に対する全面的帰投の態度は、狭い範囲に形成された共同生活において、人格と人格との緊密な結びつきを要請し人々の間には親和感、結合感が顕著であることによるだろう。これは一方では自我の独立性の意識を希薄にさせ、権威に追従するような傾向を招く恐れがある。
また日本文化は外国文化を摂取移入することによって育成されてきた点が多い。よって、外国文化を高く仰ぐことになる。最古代の日本には文字がなかった。そこで漢字が用いられてきたわけだが、のちに仮名文字が発明された。日本人は漢字を「真字」と呼び、仮名文字を「仮名(仮の名)」と呼んだ。仮名文字こそ日本人独自のものであるが、思想的な書物を仮名文字を交えて書くことは遅くに始まった。
また明治以降の思想学問は、西洋で有力な思想を紹介するに過ぎなかった。東洋思想の研究も文献研究が主ではなかっただろうか。
こういったものは、系譜尊重と外国崇拝を指摘することができるだろう。


g.力による人間結合組織の擁護
特殊で具体的な人間結合組織が絶対視されると、それを、擁護して発展させることが絶対的な意義となっていく。よって、自己の所属する組織の存立が脅かされると武力をもってでもそれを守ろうとする。日本人の思惟方法によると、武力を使用すること一般が善いか悪いか、正当であるかというようなことについて倫理的な反省はあまり見られない。人間結合組織を擁護するという内のみに神聖な目的を認める傾向があるのだ。
だがここまで日本人の思惟傾向を辿ってきて、日本人には愛情を尊重する傾向が著しいことも指摘してきた。これらは矛盾するものではないのか?
日本人はそれが例え藩であろうと国家であろうと仲間であろうと、それを維持しその利益を擁護する限りにおいて力に訴える。そこでは自己犠牲の徳が具現化される。だが自らの所属する組織あるいは指導者が戦闘の中止を命ずれば力に訴えることはやめてしまう。それは日本人にとって戦闘が、人を殺すことや破壊することが目的なのではなく、人間結合組織を力で守ることが目的であるからだ。またこうした組織を守ることは同時に名誉を守ることでもあり、道義を守ることでもあったのだ。


h.道徳的反省の鋭敏
個人の存在よりも、個人と個人の間柄に重きを置く思惟方法では、人間相互の間柄に関する感受性が敏感になる。すでに指摘したように、日本人の現世主義と相まって一般に、西洋的な意味における罪の意識に日本人は乏しい。だが西洋人と違った意味での罪の意識は持っている。他人に対する罪の意識は敏感であるのだ。西洋人は中々謝らず、それどころか自己を正当化しようとするが、日本人は自分が他人に迷惑をかけたと思うとすぐに謝る。日本人が宗教的・道徳的な反省において敏感であったかどうかは判断の難しいところではあるが、日本人一般の間に罪悪が少なく道理が支配しているということは指摘されている。現代でもアメリカで日本人移民の間で犯罪の少ないことは他民族と比較しても認められているところである。人間関係に即した道徳的な信頼関係に対しては敏感であったといってよいだろう。

 

 

3.非合理主義的傾向

a.非論理的傾向
日本人は相互の主体的連関に特に注意を払い、相互了解と信頼に基づいて行動がなされる特徴がある。こうした中において、各人は論理的な方向を目指さず、直感的情緒的であることを目指す。日本語においても、その表現形式な論理的正確性を期するよりも感情的・情緒的である傾向がうかがえる。日本語は漠然とほのかな感情を込めて表現する場合が多い。また西洋人からしばしば日本人は「物事をはっきり言わない」と批評される。それは発言者が相手の感情を傷つけないように配慮するからだ。社会生活が論理の表現を制約しているのだ。


b.論理学の未発達
日本人の間では具体的な人間関係から切り離されたものとして推理する自覚があらわれなかった。論争の題材とされている命題自体を、論争という人間的事実から切り離すということを日本人はしなかった。つまり、日本人は普遍的な命題を人間関係から切り離して抽象的に考えることを好まなかったのだ。


c.その他の傾向
また他に見られる思惟的傾向に、直観的・情緒的傾向、複雑な表象を構成する能力の欠如、単純な象徴的表象の愛好、客観的秩序に関する知識追求の弱さが挙げられる。
日本人は人間関係から様々な感情や意味づけを行う。人間相互の存在から切り離された論理は成立し辛く、また好まない傾向にある。抽象的で普遍的かつ論理的な思惟傾向が生まれにくい土壌があるのだ。そして、より単純で象徴的な表象を好む。日本人は単純性のうちに無限に可能な複雑性を生かそうとする。
日本人は基本的に、客観的知識を人間関係から切り離して抽象的に考えない。むしろ人間関係の中において把握する思惟方法を取るのである。

 

さて、本書を一言で表現するなら「日本人による日本人の素描」といったところだろうか。現実への無邪気にも思えるほどの是認、閉鎖的な人間関係への偏重と偏愛、そして非論理的で直観的情緒的な傾向。改めて描かれると、身に覚えのあるものばかりで興味深い。自分の顔は自分では見ることができない。そこで鏡が必要になるわけだが、本書はさながらその鏡といったところだろうか。
日本人のこのような気質は、文学においては大いに豊かなものをもたらしただろうが、科学や哲学など論理的で客観的な知がものを言う学問の根は中々育ちにくかったことだろう。現代の教育では論理的な思考力をいかに養成するかに主眼が置かれている。私たちが民族として、また言語や風土が生み出した「種」とでも言うべきこれらの気質とは真逆な価値観のもとでの発達(と評価)を余儀なくされている。これはいかなる意味を持ちうるのだろうか?
興味は尽きないのだ。日本人は面白い。

 

「日本人の思惟方法」中村元選集より、第3巻

なんとなく書棚を眺めて自分の嗜好や趣味に合いそうな本を見つけた時の喜びはなにものにも代え難い。普段はあまり注意深く見ない図書館の書棚を歩いていて本書を偶然見つけた。少し前にルース・ベネディクトの「菊と刀」を読んでいただけに、ちょっと興味を惹かれて借りてみた。
これが読んでみると面白く興味深い。中村によると、日本人の思惟方法の特徴は大きく以下であるらしい。

1.与えられた現実の容認
2.人間結合組織を重視する傾向
3.非合理主義的傾向

これら3つの大きな特徴は単に思惟方法に留まらず、言語や文化、宗教に至るまで多彩な面を見せている。その辺りをこれから整理していきたい。


1.与えられた現実の容認

a.現象即実在論
生きるために与えられている環境や客観的な条件をそのまま肯定してしまうことは、日本人の思惟方法のうち基本的な部分である。つまり、現実にある世界(現象世界)をそのまま絶対的なものとして、その現実を離れた境地に絶対的なものを認めようとする立場を拒否する傾向にあるのだ。これを明治以降の哲学者は「現象即実在論」と呼んだ。また仏教思想もこうした影響を強く受け、日本においては独自の発展を遂げるに至る。禅宗においてそれが最も顕著に表れている。鳩摩羅什サンスクリット語を「諸法実相」と訳したが、これは「私たちの経験する諸現象の真実の姿」という意味である。諸法と実相は異なった概念であるが、天台学では「諸法は実相なり」という解釈を成立させて、現象即実在論の立場を取るに至ったという経緯がある。これを道元は「実相は諸法なり」と逆転させる。この表現において、「もはや隠されているものは何も存在しない」となる。ここにも、現象をそのまま肯定し受け止める姿勢が伺える。

また日本人は自然を愛好する。とりわけ小さいもの優美なものへの尊重がある。また一般の動物も人間同様のものとみなす考えがある。例えば医学者たちでさえも実験のために殺した動物のために慰霊祭を行う。こうした習俗は西洋社会には見られない。
また釈尊の涅槃図においても、日本へ来ると鳥獣が多く描かれるようになっていくこともこれをよく表している。
日本人は一般的に自然を嫌わず、愛好し威圧的なものとは考えずに親しいものとみなしている。そしてこうした思考から、自然は人間と対立するものではなく一体となるものであるとの考えが生まれる。こうしたところに、日本人が自然を愛好する理由があるのではないだろうか。


b.現世主義
例えば世界の諸宗教は、現世を穢れたものとし来世を楽土として天国を理想とする。だが原始神道は、現世の価値をどこまでも認めている。「続日本紀」には前世と来世との中間を「中今(なかいま)」とし、今の生活に力点が置かれている。
日本の神話では未来については言及がない。古代日本人が死を恐れていたことは明示されていなかった。神話全体が、現世に愛着を持ち現世を重んじている。死を穢れとし、生のみを楽しんでいたのである。日本の原始宗教は、こうした現世主義にアニミズムシャーマニズム、人間結合組織を重視する傾向が加わり多様さを見せている。
さて、こうした風土に仏教が移入されてくるわけだが、こうした現世主義は消失してしまったのだろうか。むしろ日本人は大陸から受容した仏教を現世中心的なものに変容してしまったのである。奈良・平安時代を通じての仏教は現世利益を目指したものであり、祈祷呪術が主であった。近世になると現世主義はより濃厚になり、唯物論さえも生み出していくことになるのである。
日本人は仏教が渡来する以前より現世主義・楽天主義的であった。よって、現世を穢土とみなす思想は十分に根を下ろすことがなく、仏教で説かれる「不浄観」もそのままでは日本人には採用されなかったのである。それらは日常生活の実践の上に具現されなければならなかったのだ。
また厭世観も独特である。西洋でいう厭世とはこの世の生存が嫌になることであるが、日本人の場合は社会的な煩わしい束縛や拘束をうるさく思い離脱しようと思うだけなのだ。だから人間社会から遠ざかって自然に近づけば厭世観的な思いはなくなる。
世俗の事物に対しての強い愛着は、古代日本人に限ったものでないことは、私たち自身を顧みれば容易に気づくことができるだろう。


c.人間の性情の容認
ここまで日本人の思惟の特徴として、現実に対する肯定と、そこに絶対的なものを置こうとする姿勢を見てきた。
そして、与えられた現実的自然のなかで最も人間的であり直接的なものは人間的自然である。ここで人間の自然の性情を尊重するという傾向が現れてくるのである。日本人は外的で客観的な自然に対してあるがままの意義を認めようとしたが、同時に人間の持つ自然の欲望や感情もそのまま認め、抑制したり戦う努力をしない傾向がある。
例えばインドの原始仏教などでは修行者は人間の喜怒哀楽を消滅するのが理想とされてきた。むしろ感情を露わにするのは未熟であると非難された。だが日本において、日本的特徴の顕著な日蓮は「うれしきにも涙、つらきにもなみだ也……」と書いている。日本人はむしろこうした人柄に共感する。人間の感情を肯定する日本の仏教は享楽的な方面に流れる傾向があった。平安時代の修法は貴族にとって現世の快楽のためのものでもあり、宇治の平等院はそれにかなうものであった。「声尊き人々に経など読ませて夜一夜遊び給う」程度に過ぎなかったのである。
また近世仏教者のうちで民衆を仏教に広めた慈雲尊者飲光は、道徳とは「人間の自然の本性に従うことである」と説いている。だがこういう意味での自然主義は一般日本人の中では広まらなかった。反対に人間の欲望や感情を充足させる意味での自然主義の方が日本の仏教を支配することになったのである。
仏教の戒律をほぼ全面的に放棄した民族は東洋の他の国々には存在しない。日本人は特殊な閉鎖的な人間結合組織を固持しようとする傾向が強い。これと戒律破棄は矛盾するように思われるが、必ずしも矛盾するものではない。戒律は常識的な道徳とは一致しない。肉食や飲酒の禁止、結婚の是非などは人間結合組織の利害の維持という視点から見ればどちらでもいいことである。戒律は守らないが、閉鎖的な人間結合組織の利害に関しては献身的であるということは宗教者一般に見られる現象である。こうした態度から日本人は自然の欲望を肯定し、戒律を破棄しても、必ずしも道徳的秩序を捨て去ることにはならないと考えているといえる。
日本における精神指導の欠如の問題として、人々は口を開けば宗教家の腐敗堕落を云々する。それは宗教家のみの責任ではなくて、古来の日本人全体の思惟に基づいて起こった現象といえるのではないだろうか。このような思惟的特徴は他の領域にも認められるのではないか。


d.人間に対する愛情の強調
日本人は与えられた現実を容認し、それは人間の諸感情を容認し尊重することになって現れる。そして仏教思想と恋愛が結びつけて説かれているが、それは性愛や恋愛が宗教的なものと矛盾しないものとして考えられていたからだ。
人間的自然を尊重する思惟方法は、現実の人間に対して愛情を持って接することになる。現実の身体の意義が尊重されるとともに、日本の仏教では身体を労わる思想が顕著となった。
人間に対する愛情は、また戦争に対する観念の相違となって現れる。日本において戦争が済むと勝利者は自らの戦没者のみならず敵軍の戦没者の冥福を祈るということを行なっていた。これは平安時代中頃から、江戸時代にまでかけて行われた。敵も味方も戦没者をともに弔うというのは日本における特徴的な伝統であったのだ。
日本において愛情が強調される傾向は、日本民族固有のものであったのかはまだ詳細な研究を要する。おそらく慈悲の精神は仏教とともに日本に移入されたものであろう。人間に対する愛情は日本人の中に古来から存在する自然愛好と密接な関係があるだろうこと
も指摘しておきたい。


e.寛容宥和の精神
日本人は寛容の徳の著しい民族であると言われている。民族間の闘争が行われたことは事実であるが、その武力闘争が激烈なものであったという形跡は認められない。
このような社会事象の特徴に関連する思惟形態としては権力による支配服従よりも社会各員の間の親和感の方が顕著に現れてくる。日本人の各自の主観的意識の面で親和感・寛容の精神がある。古代日本の社会は祭事的な統率組織であった。社会の意識の面においては共同体的な親和感が全体に漂っている。この寛容な精神は罪ある者も深刻に憎悪するということがない。日本には古来残酷な刑罰が存在しなかった。
なぜ、日本人の間には寛容宥和の精神が著しいのか?それは仏教の影響によるのではないだろうか。平安時代に死刑が行われなかったのも仏教の理想が政治の上に具現されたためである。また現代でもかつて廃仏毀釈の行われた地方には近親殺戮の犯罪が多く、対して仏教の盛んな地方ではこうした犯罪が少ないという統計も示されている。だが、日本人の民族性に寛容宥和の態度があるために仏教が急速に受け入れられていった、と考えることもできよう。
こうした思惟形態は、浄土教をも変容させている。阿弥陀仏は念仏をする一切衆生を救うが、「唯だ五逆と正法を誹謗したものを除く」という制限がある。法然はこの文言を無視したが、浄土真宗では「悪人正機(悪人こそ救われる正当な資格がある)」の説が成立する。このような思想が一般に真宗の根本教義だとみなされたという事実は指摘しておきたい。よって、日本人は死人のことを「ほとけ」と称する。こうして悪人も死後には責任がないということになるのである。


f.文化の重層性と対決批判の精神の薄弱
日本人は、多様な外来文化をそれほど摩擦を起こさずに摂取した。そしてそれぞれの文化的要素に存在意義を認め、過去から伝承されたものをなるべく保存しようとする。異質な要素を並存させつつも、その間に統一を見出そうとするのだ。また言語においても外来語が多く見られる。このような歴は他に見られない。日本人は外国文化の摂取包容に極めて敏感であった。外国文化は日本文化の構成要素の一つとして摂取された。日本文化の重層性はこのようにして理解される。
また日本の政治においては徹底的な改革が行われることはなかった。一時代の支配階級がその後になっても陥落することはない。支配階級の間に政治的重層性が認められ、古い時代の支配階級は政治方面においては支配者的地位を喪失しても伝統的な貴さが認められ、古い文化的伝統の保持者、精神的権威として尊敬されたのだ。
また日本人は人間関係重視・非論理的性格により、徹底した批判対決の精神がないと評されている。芸術や文芸作品においても、観念的になるにせよ一つの理念を徹底させようとする気迫には乏しい。理論的な反省と徹底化がないことは、反面滑稽洒脱の態度となって現れる。川柳や俳句その他種々のものを持っている。
日本人は外国から移入したものであれば仏でも七福神でも区別なく嘲弄する。だが祖先の神を嘲弄することは決してしない。ここに、日本人の間における宗教的自覚の弱さと、人間結合組織の重視的・系譜偏重思惟傾向がうかがえる。

現代へのデッサン

現代というのは、見えにくいものだ。なぜかというと、現代という時代はあまりにも卑近なものとして私たちの中に現れているからだ。この2018年から数年間を描写するのと、300年以上前の江戸時代を描写することの易しさを比べると、江戸時代の方がはるかに想像し定義しやすい。
例えるなら、時代というのはモザイク画のようなものだと思う。近寄って見ていると、まるで何がそこに描かれているのか分からない。少し離れて見てようやく全体が分かるのだ。
現代という時代は、あまりにも卑近過ぎる。だが、間違いなく今は歴史の転換点にいるだろうと私は感じている。人の定義はこれから変わっていくだろうし、社会の在り方そして人の脳の構造だって変わっていくに違いない。
ではなぜそう思うのか?そして、そのような「現代」とはどのようなものなのだろうか?
現代はあまりにも卑近過ぎる。私は巨大で複雑になったこの社会や時代の一欠片でも掴めてはいない。ただその影だけをおぼろに見ているだけかもしれない。だがあえてこの現代をデッサンしてみよう。
私の生きる時代を、知らないでは惜しいから。


そもそも、「現代」とはいつから始まったのだろう。ちょっと調べると、現代史学では大まかに20世紀=現代という通説があるらしいがこれも絶対的な基準ではない。他にも大きく区分される歴史的転換点が3つあり、そこを起点として「現代」とする考えがある。
一つは先述した20世紀の始まりをもって現代とするもの、二つめはロシア革命を起点として現代とするもの、そして1945年のいわゆる戦後からを現代とするものだ。
「現代」の起点、つまり時代の移り変わりの定義とはその前の時代と決定的に異なるような社会環境や文明などが現れた/現れる始まりに置かれるであろうことがなんとなく理解できる。だが現代とは常に可変的なものである。その起点をどこに置くかは難しい。


私はインターネットの登場をもってして、「現代」としてみるのも面白いかもしれないなんて思っている。人類が、時間や言語や空間を飛び越えられるような手段を手にした時代はあっただろうか。それも企業や軍隊などごく一部の集団やそこに所属する人間のみに制限されず、市井の人々がそれを手にして日常的に生活を送るような時代である。
とりあえずは1995年からを「現代」としてみよう。言わずもがな、マイクロソフトWindows95を発売した年である。そして、偶然の符号なのだろうけれど日本では地下鉄サリン事件が起こっている。なぜ多くの若者(エリート)が一連の凶行に及んだのか議論されたが、その背景にはバブル崩壊をきっかけにした漠然とした社会不安が関係しているとも言われている。まだ終身雇用の名残のあった時代だろう。だが確実に前の世代が受けていた恩恵(パイ)は細くなっていただろうし、社会は確実に変化を迎えていた。その大きな起点の一つがインターネットの普及であり、よって1995年からをここでは現代としたい。


2018年の今も現代と連なるわけだが、1995年から現在の特徴とはなんだろう。私は思いつくままに以下にあげてみよう。

複雑 集団化 匿名化 不透明 不安
ロールモデルの喪失 神話の喪失 混乱 無自覚

社会は巨大化した。それは必然的に複雑なシステムを作り上げ、人々を集団化した。現代は「顔の見えない個人」のいる時代であると感じる。これはつまり匿名化である。
不透明さ、未来の見通せなさは現在に近づくほど高まっていると感じるが現代の特徴はそこに希望ではなく不安を覚えるところにあるのではないか。それはこれまで強固に存在していた価値観やロールモデル、神話が意味をなさなくなってきたからだと感じる。現実と、語られてきた内容の乖離が凄まじいのだ。
そこで人々はどのように思考し、行動するのだろうか。一つは混乱であり、もう一つは無自覚無神経にならざるを得ない。現実は私たちを傷つける。


ここ最近感じることは、より個人の世界が狭くなってきているということだ。私は現代の特徴の一つに「集団化」を挙げてみたものの、これとは真逆のことが同時に起こっていると感じる。「核個人化」、これは私の作ってみた造語だけれども、個人はより隔絶された存在となって社会の中にある。こうした精神をフリッツ・パールズは「ゲシュタルトの祈り」の中で端的に表しているように思えた。

「私は私のために生き、
あなたはあなたのために生きている。
私がこの世にあるのは、
あなたの期待に応えるためではない。
あなたがこの世にあるのも、
私の期待に応えるためではない。
あなたはあなた、私は私。
たまたま心が通じ合えば、それは素晴らしい。
通じ合わなければ、それはそれで仕方がない」

なんらかの集団(家族や地域、学校や会社、大きくは社会の中で)に属してはいるものの同時に極めて小さな個人としての世界観の中に存在している。これは何を意味するのだろうか。掌の中にタブレットさえあれば、全てが完結できる時代の中にあって私たちは何を考えて思うのか。
この歪さと矛盾、隔絶が今の時代の底流に流れているように思える。
社会集団はかつてほどの力と意味を失い、そこに強烈な個人意識が代わって入っている。そこにインターネットという「現代の申し子」が生まれた時から存在している。現代はそういう世代が家族や地域、学校、社会の中に存在している時代でもある。


ここである二つの問いがふと出てくる。一つは、「文明の発展、技術の進歩は果たして私たちを幸せにするのか?」というものであり、もう一つは、「では既存の社会制度や価値観は、私たちを本当に幸せにしてきたのか?」というものだ。後者の方に対しては、現実に起こっている事象を極端に単純化したり、客観的で論理的な主張よりも主観的で感情的な主張の方が好まれる現象によく表れていると思う。既存のものに対する不安や不信は、問い直されている最中ということか。あるいは、歴史的な審判のただ中にあるというのは大袈裟だろうか。
だが前者の問いに答えることはとても難しい。技術や文明は一つのところにとどまるということはない。現代に明確な区分が存在できないように、それらの是非もそれなりの時間が立たなければ「とりあえずは」つけることができない。そして、それは可変的なものである。ある時代には是とされても、次の時代では全く別の評価となることも当たり前である(ロボトミー手術が良い例だ)。


なんでこんなことを考えているのかというと、最近読んでいるシモーヌ・ヴェイユによるところが大きい。彼女は「現代」をこのように表現している。

「現代とは、生きる理由を通常は構成するものと考えられている一切が消滅し、全てを問い直す覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である。
われわれは何もかもが人間の尺度に合わない世界に生きている。人間の肉体、人間の精神、現実に人間の生の基本要因を構成する事物、これら三者の間におぞましい不釣り合いが介在する。一切が均衡を欠く」


私はこの文章に「人間らしさの喪失」を読んだ。
だが、それは何によって、誰によってもたらされたのか?
現代の悲劇とは、その対象が曖昧模糊で誰にもどんなものにも問えない点にあるのではないか。全てが「顔の見えない個人」に帰結してしまうような恐ろしさ、怖さがそこにある。名前も人種も年齢も性別も国籍もない。一切の固有名詞が存在しない。
ここでは「自分が今を生きている」という実感に乏しい。生きている実感のない中にあって、いかに自分が「生きている」ことを証明できるのか。
現に「本能のあるがままとして生きる肉体」と「漠然とした生を浮遊する精神」、そして「現代という社会環境」の間には、ヴェイユの言葉を借りれば不均衡が、耐えられないほどの不均衡が存在している。
いかにそれらを調和させることができるのか、そもそも調和することなどできるのか……こういった一切は面倒で小難しく、考えたくもないことである。そうであるから、一定の人々は混乱し、さらに多くの人々は無自覚になり無神経になっていく。
だがヴェイユは一方でこんなことも残している。

「すべての人間には聖なるものがある。それは人格ではない。その人の固有の人格でもない。聖なるものとは、端的にその人、その人間である。
人間が同胞のためにできるのは、何かを付与することではなく、別の場所から到来する光、高みから到来する光へとその人間を向き直らせることだ」


心理学や社会学が付与し、定義するものとしての人格ではない部分、最も小さな「人間」としての単位の中にこそ救いがあるのではないか。なんとなく、私はそう思ってみた。私たちができることはそう多くはない。ただあるべき方向へと、また別の人々を向き直らせること、その程度でしかない。それはある種の信仰という宗教的なものとなるかもしれないし、ほんの少しのパターナリズムを伴うアカデミックな先導という形をとるかもしれない。あるいは、全く想像もつかないような社会的なムーブメントが起こることだってあるかもしれない。予想がつかないということは、別の見方をすれば可能性に満ちている、ということだ。こうした「可能性」について、どのように「顔の見えない個人」一人一人が捉えるか。そしてその集合知としてこの時代はどのような空気をまとっているのか、それが現代の一つの「見えてくる顔」であるかもしれない。

「自由と社会的抑圧」シモーヌ・ヴェイユ

‪人間への深い理解と愛、そして社会と権力への厳しく鋭い眼差し。夢想と理想は違う。高度に組織化される社会や生産活動の中にあって、人々は混乱と無自覚、そして隷従の只中にいる。次第に個人が集団化、匿名化されていく時代にあって、ヴェイユは人々の啓かれた個々の善意を信じた。‬そして、たとえ不可能であったとしても、強者も弱者も互いに協働して巨大な社会的抑圧を乗り越えていくべきなのだ。そして、新たな女王として君臨する科学や技術は全く異なる視点から、社会的生を日常の中から、とりわけ労働の中において考察していく必要がある。こうした努力こそが、あらゆる抑圧から個人を救い、精神を新たな紐帯へと結び直すものになるだろう。
個人的には「現代社会の素描」が面白かった。ヴェイユの描く「現代の素描」は1934年のものであり、第二次世界大戦が始まる5年前のものだ。だがそこにある顔なき個人(労働者)の姿は、21世紀を迎えた現代でも色褪せるものではなく、生き生きとして立ち昇ってくる。
私たちは、絶え間ない技術の発展と複雑さを増す社会によってどのような存在となり得たのか?そして、私たちの持つこの文明は果たして私たちを豊かに、そして幸福に導いていくものなのだろうか?こうした問いの答えはいまだその輪郭すら、掴めてはいまい。
行動と思索の人ヴェイユの代表作の一つから、辿っていく……。


抑圧の分析
「現代とは、生きる理由を通常は構成するものと考えられている一切が消滅し、全てを問い直す覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である」

「個として行動する人々の啓かれた善意こそが、社会進歩にとって唯一の可能な原理である」

「われわれは物質的な進歩を、天与の賜物あるいは自明のものとして、あまりにも安直に受け入れている。進歩を実現させる代価となる諸条件を直視せねばなるまい」


なにをなすべきか。無思慮な熱気に煽られて論戦に巻き込まれても益はない。
力と抑圧は別物である。ある力が抑圧的であるかどうかは、力が行使される方法ではなく、力の本質そのものにより決定される。抑圧は、客観的な諸条件から生じる。第一に特権の存在である。この特権を規定するのは事物の本質である。人間の発展に不可避なある種の状況に、人間と生存条件と努力と努力の間に割り込む様々な勢力を出現させる。だがこうした勢力な万人には分配されず一部の人々の占有物となる。だがこうした特権だけで抑圧を規定するのは充分ではない。弱者による抵抗と、強者の正義感により不平等は緩和されうるからだ。不平等も権勢のための闘争が介入するのでなければ自然的な欲求が突きつける以上に過酷な必然を出現させはしない。
主人は奴隷を怖れるからこそ、奴隷にとって恐るべき存在となる。自身が支配する人々に対する闘争と、自身の競合者に対する闘争は分かち難く結びついている。いかなる権力も、外部で得られた成功によって、内部の結束強化を目指さねばならない。だが闘争の勝利に欠かせない服従と犠牲を被支配者からとりつけるためにより権力は抑圧的にならざるを得ない。このような新たな抑圧を可能にするために、権力は外部へと向かって行く。こうして、連鎖は続いて行くのだ。
この循環を打破する方法はふたつしかない。一つは不平等の撤廃であり、もう一つは安定した権力の確立、支配する者と服従する者との間に均衡を成立させる権力の確立である。
一般論として人間と人間の間では、支配と服従の関係が受容されることはあり得ず、不均衡を生み出すのが常である。私的生活においてもおなじである。
権力への奔走は、強者と弱者の別なく万人を隷従させる。
利害というのは利己的行動の原理だ。よりよく生きる手段に過ぎない事物のために、他者と生命をぎせいにすること、これこそが社会的な存在を支配する法則である。こうした犠牲は様々な形態を帯びるが、権力の問題へと要約される。権力は手段しか構成しない。権力を有することは、個人が単独で行使しうる制限された力を超える行動手段を有することである。だが、対象を決して掌握することはできない、という本質的な無力さゆえに、権力は目的についての考察を斥ける。そして最終的には追求が一切の目的に取って替わるのだ。歴史に溢れる無思慮と流血は、根源的にこの狂気にある。人類の歴史は隷従の歴史である。万人は抑圧者であっても被抑圧者であっても、自身が作り上げた支配の手段に翻弄される玩具となり、惰性的な事物へと貶められる。


自由な社会の理論的展望
「しかしながら、自分を自由たるべく生を受けたと人間が感じることを、世界の何ものも妨げることはできない。断じて、なにがあろうと、人間は隷従を受け入れられない」

自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期が来ている。よりよき状況は、完全なそれとの対比でのみ構想しうる。それは理想をおいて他にない。
人間が生きていく限り、必然の重圧は緩まないだろう。人間の弱さを考慮すれば、労働の観念すら喪失したような人生が狂気に晒されることは理解できる。規律なしに自己の制御はないのだ。唯一の自由とは、幼児が享受する自由であり、現実では自身の気まぐれへの服従に他ならない。
自由という語は、欲するものを努力せず獲得する可能性以外の何かを意味している。人間は思考する。よって、必然が押し付けてくる外的刺激に屈するか、内的表象に自身を適合させるのかという選択肢を有する。ここに、隷従と自由の対立がある。
隷従の要因は、他者の存在である。これこそが唯一の本質的な因子である。人間のみが人間を隷従せしめる。
最も弊害の少ない社会とは、一般の人々が行動する際にあたって最も頻繁に思考する義務を負い、集団にあって最大限の制御の可能性を持ち、最大限の独立を保持するような社会である。肝要なのは、特定の方向に邁進することではなく、最善の均衡を見出すことなのだ。


現代社会の素描
「…おのれの行動を思考に服させるなどもってのほか、そもそも思考すらおぼつかないというのは、かつてない事態である」

「われわれは何もかもが人間の尺度に合わない世界に生きている。人間の肉体、人間の精神、現実に人間の生の基本要因を構成する事物、これら三者の間におぞましい不釣り合いが介在する。一切が均衡を欠く」

「現に生きている世代は、人類史上に連綿と続く全ての世代の中で、おそらく想像上の上では最大の責任を、現実的には最小の責任を担うことになろう。この状況は、ひとたび十全に理解されたならば、驚嘆すべき精神の自由を与えてくれる」

生は全く次元の異なる単位に転移してしまったのだ。
経済体制は、物質的な基盤を覆すためにのみ機能し始めた。そして、技術の進歩と大量生産は労働者を受動的な役割へと追い込んでいく。他方で企業はあまりにも防爆で複雑なものとなっている。人間は自己の帰属をそこで十分に感じることができない。あらゆる領域において、重要な職にある人々は、ひとりの人間精神の射程をはるかに超える責を負うことになる。社会的生の総体は、多様な要因に依存しているが、この要因一つ一つは曖昧で錯綜する関係性へと絡まり合っている。その複雑なメカニズムを理解しようと思いつくものはいない。
人間がここまで隷従させられてしまうと、いかなる領域においても価値判断は外的基準に依拠するしかなくなる。
唯一の救いの可能性は、社会的生の脱集中化を目指して、強者も弱者も力を合わせて方法的に協働することである。だが、個人間の競争と階級間の闘争と国家間の戦争に基盤を置く文明にあって、こうした協働は夢にも考えられないだろう。だが、この協働なくしては、中有集権化に向かう偶然任せの社会的な機械仕掛をおしとどめることはできないのである。



「この文明には人間を解放する何かを含んでいる」

科学や技術に対する全く新たな視点からの歴史、現状そして発展の可能性についての研究が不可欠になるであろう。日常の生、特に労働における日常の生において、また他方では科学の方法的理論化において人間の思考が実現して来た精神の歩みに見られる類比に光を当てて、解明しなければならない。
このような一連の考察がその後の進化になんら影響を与えなかったとしても、価値がないわけではない。この努力を行う人間は、集団的目眩の汚染から自己を救い出し、社会の中にある偶像を見下ろしつつ精神と宇宙との原初的な協定を結び直すことができるであろう。

第9講 教育の複雑さ・微妙さを伝えたい 広田照幸

そもそも、「教育」とはなんであろうか。広田の定義では「教育とは、誰かが意図的に他者の学習を組織化しようとすること」であるそうだ。だが、「誰か」とは一体誰のことを指すのか、「意図的に」とはどのような意図なのか、それはどう正当化されるのか…など様々な問いが生じてくる。
教育学が様々な分野(教育哲学・教育社会学など)から成り立っているのは固有のアプローチや対象の考察、実証を通してこうした問いに適切な答えを見出そうとしているからなのだ。つまり、「教育とはなにか」という問いにはもっと具体的な沢山の問いから成り立っているわけである。

第一に「他者の学習を組織化しようとする」ということは、傲慢なことであるだろう。ドイツの社会学ルーマンによると、子どもにとって自分に押し付けられる教育な外部環境の一つに過ぎない。「他者の学習を組織化」しようとする教育は相手に受け入れられるのか、また受け入れられたとしても教育者が思うように相手が考えたり行動してくれるのかは心もとない。このことを広田は「教育の不確実性」と呼んでいる。
まず、教育を受ける側は教育に対してやり過ごしたり離脱する自由を持っている。
第二に、教育を受ける側は教育する側が意図したものと全く異なることを学んでしまう可能性がある。
第三に、教育の働きかけは相手と相手の状態によって、全く異なる結果が生じてしまう。
よって、教育に失敗はつきものなのである。教員は自らの知識や経験、目の前の子どもに関する限られた情報とを総動員して、自分が最善だと思うことをやってみるしかないのだ。ドイツの教育哲学者であるブレツィンカは「教育的行為は未知の結果を伴う未知の事柄への介入に他ならない。このような状況は、一方で成果への希望を許容するが、他方で控えめにしかその希望は抱けないのである」と述べている。
教育者は効果的な因果関係やある手段が起こすであろう副作用についても見通すことはできない。そういう状況の中で、手段を選んで教育していくことになる。教育とは、そのようなものなのだ。ゆえに教育には常に失敗がつきまとうが、教育学の知識を参照することで「よりマシな」ものにすることはできる。

教育には沢山の意図が込められている。歴史の授業では、「歴史に対する興味関心を高める」ことを目指して授業することも出来るが「思考力、判断力、表現力を養う」機会として扱うこともできる。教員は沢山の目標達成を意図して一つの授業を行うことができる。また一つの意図の実現に向けて、沢山の教育行為が体系性、継続性を持って組織されることもある。
また教育に込められた意図には対立するようなものも含まれている。学校は本質的に集団と個、平等と差異について矛盾を抱えた空間である。

このように、教育の現場とは複雑なものである。狭い体験や、「○○すれば生徒はついてくる」というような、素人教育論だけを見ていても、より良い教育の方向性は見えてこない。教育は他者を変えようとする行為であるがゆえに、不確実性が常にある。またその目的や目標が無数にありしかもそれらは時として対立し矛盾を抱えてもいる。そうした中では知識と見識が必要であり、教育学はそれらを養うための学問である。「大学で学ぶ教育学は教員の仕事に役立たない」という批判がある。確かに、大学で教えられる教育学は現場とは距離があるだろう。だが、そうであるからこそ「日常にない知」「日常を見つめ直す知」として必要なのではないか。

第8講 悲しみをわかちあう 金子絵里乃

社会福祉学というと、どうしても高齢者や介護について学ぶものであるとのイメージが先行する。だが、社会福祉学の根底には一人一人の命を尊ぶという価値があり、孤独な人や苦悩している人、人との繋がりや生きる気力を失いつつある人、援助に繋がりにくい人などに目を向けるものである。そして、そのような人々がどのような生活をし、どのような苦悩を抱え、何を必要としているのかを考える学問である。社会福祉学とは限られた人のことだけでなく、生きている全ての人について学ぶものであるのだ。

本講では、大切な人を失うことによって体験する悲しみについて、特に子供を亡くした人の悲しみとはどのようなものなのか、そして同じ体験をした人と人が悲しみをわかちあうことが本人にとってどのような支えとなるのかを取り上げる。
人が自分とのつながりのある何かを喪失した、喪失するかもしれないと予感した時に体験する悲しみの反応を「グリーフ」という。元々は「重い」という意味を持つラテン語(gravis)に由来し、「心が悲しみで重くなる」という状態を示す言葉として用いられていた。日本語では「悲嘆」と訳されており、悲しみを専門的かつ理論的に表現した言葉である。
グリーフは十人十色であり、亡くなった人との関係性や繋がりの深さ、亡くなった原因や死別した人の性格や年齢によって違いが見られる。またグリーフを体験する時期や期間も様々である。死別した時と同じような状態が続くようなことはなく、グリーフは形を変えて変化していく。何年たっても体調を崩したり落ち込むようなことがあり、心身の変化に本人がびっくりすることもある。
このように大切な人を亡くした人が新たな生活に適応するには「喪失の現実を受け入れる」という課題に取り組むことが必要になる。こうした悲しみの中にいる人の支えとなっているのが、同じような体験をした人の存在であり、その悲しみを「わかちあう」ことなのだ。
この悲しみをわかちあうものの中には「共存する」「共有する」「共生する」という三つの要素が含まれている。
だが、同じ体験を持つ人同士であっても、その原因、性格や年齢などの違いによって温度差が生まれ悲しみが深まることもある。また死別は生活の変化を余儀無くされるため、1人での生活が困難な人の場合などは援助者による早急な援助が「わかちあい」よりも必要になる場合がある。わかちあうことは、ケアの1つであることも理解しておくことが大切なのである。

「知のスクランブル」第3講:古典と二次創作

日本大学文理学部
「知のスクランブル-文理的思考の挑戦」ちくま新書

第3講 物語を読む・作る-古典と二次創作 佐藤至子

現代用語の基礎知識2016」では、二次創作について以下のように説明している。

「既存の作品に基づいて、新たな作品を創作すること。同人誌などのパロディーや音声合成技術によるボーカロイド動画の連鎖などが典型例だが、広く音楽のサンプリング、現代アートにおけるコラージュなど20世紀以降の表現の多くを含む。二本は和歌の本歌取り、歌舞伎から黒澤明の映画に至るまで、二次創作の豊かな伝統を誇る」

二次創作における原作の扱われ方は、作者の姿勢によって2つに分けられる。1つは原作から抽出した要素を作品内部に潜ませて読者が原作の存在に気づかなくても構わない、というもの。2つ目はその逆で読者が原作に気づけるように明示していくものだ。パロディーは原作と重ねて読む楽しさを追求するものである。原作を知る人が多ければ多いほど、パロディー作品も広く受け入れられることになる。よってパロディーが上手くいく条件は以下の2つである。1つは原作の面影を積極的に残すこと、2つは原作を知っている人がなるべく多いことである。

日本の文学は二次創作の宝庫である。ここでは近世(江戸時代)の文学について取り上げよう。近世は古代・中世に続く時代であり、近代の前に当たる時代だ。「伊勢物語」や「源氏物語」の文学は近世の人々にとってもすでに古典文学であった。近世の人々も古典を読むときに注釈書などを用いながら古典を読んでいた。そのように古典に親しむ読者の数は中世よりも、近世の方が多かったと考えられている。それは近世に印刷技術が普及し、出版文化が成立したことと関係がある。近世以前は多くの書物が基本的には書き写すことで複製されていた。注釈研究などの学問的知見を共有できるのも、上流階級の人々に限られていた。16世紀末にヨーロッパと朝鮮から活字印刷の技術がもたらされると日本でも仏教書・歴史書・日本の古典文学など様々な書物が出版されるようになる。その結果それまで限られていた人々に享受されていた古典もより多くの人々に読まれるようになっていくのである。

伊勢物語」のパロディーに「仁勢物語(にせものがたり)」がある。原作では、以下のように物語が始まる。

「自分を無用の存在とみなした男が1人2人の道連れとともに京から東の方へ下っていく。道を知っている人もおらず、迷いながら行った。三河の八橋というところに着き乾飯を食べる。沢には杜若が咲いており、そこで「かきつばた」の5文字を織り込んだ旅の気分を変え詠みなさいと言われ、詠んだ歌は慣れ親しんだ妻を都に置いて旅をして来たことに思いを馳せる内容であった。その和歌を聞いて、みんな泣いてしまった」

一方の「仁勢物語」では、三河の八橋が岡崎に変わり、旅籠に立ち寄って食事をする。そこで「かきつへた」の5文字を織り込んで歌を詠みなさいと言われ、詠んだのは徒歩の旅を連れ立って昨日も今日も続けてあちこちめぐり歩く旅であることよという狂歌だった。これを聞いてみんな笑った、というものになっている。
伊勢物語」には都から来た貴族たちが旅先で感じる心細さや侘しさが表現されている。一方の「仁勢物語」では旅籠で食事をする庶民の姿が描かれている。贅沢ではないが侘しくもない。

近世の人々にとって古典文学は、読書や研究の対象のみならず、創作の材料でもあった。二次創作には既存の作品が様々な形で創作の素材源となること、つまりある作品を読んだ人間が別の新たな作品を作り出し、また新しい読者に読まれていくという循環が見出せるのだ。