偏愛断簡集

徒然なるままに綴る。

私の痛み、誰かの痛み

「カミングアウト・レターズ」
RYOJI+砂川秀樹
太郎次郎社エディタス

人は誰だって、自分の見ているもの、見えているもの、見ることのできるものを全てだと思う。その視野から零れ落ちたものは「異端」や「異常」なものとして認識され、切り捨てられる。
例えば男は女を好きになること、女は男を好きになること…体の性と心の性は生まれつき一致していること、異性同士で家庭を持つこと。
これが長い間恐らく人々の目に「見ていた、見えていた、見ることのできる」ものだっただろう。
私は「カミングアウト・レターズ」を文芸サークル会誌での書評欄で取り上げるということで読んだ。本書はゲイやレズビアンの子どもたちが親や先生に自らのセクシャリティをカミングアウトした手紙を集めたものである。読んでみると、これが結構良いことを書いている。市井の人々の方が、明敏に社会の矛盾や欺瞞を見抜いている。
以下は私が読んでいて、気に入った箇所である。


「ただ結婚して子を生し、家庭生活を営んでいるというだけの理由で、そのかけがえのなさを感謝するだけでなくて、なんだか偉そうにしてしまう。人ってそういう愚かで傲慢な部分があるでしょう。でも皆んな与えられた生の意味を必死に生きてるだけ。それを忘れると、心が貧しくなる」


「皆んな与えられた生の意味を必死に生きてるだけ。それを忘れると、心が貧しくなる」
セクシャルマイノリティーやLGBTと仰々しく言う必要はここではない。ただ「必死に生きてるだけ」。
私はレズビアンであるけれども、こうした捉え方は好きだ。男や女、日本人やゲイ、レズビアン…といった無数のラベルを剥がしてみれば後に残るのは「人間」であるということのみだ。そこから私たちはなんと遠く複雑なところまで来たのだろうかと思う。
私は今の社会が想定する「普通」の人間ではないだろう。幸せになるためのハードルはもしかすると高いかもしれない。


「少数派であることを実感する社会の中で生きて、痛みを忘れないでいたい」


これはゲイの男性が母親へ宛てた手紙の一節である。
確かに、今の社会で生きていくことは痛みを伴うことだ。私の痛みと誰かの痛みに聡くあること。
マジョリティ、マイノリティ問わずこの明敏さを持たない人々が最も不幸であるだろう。

 

資本主義とゲイ・アイデンティティ

最近、私の中での主要テーマの一つは「セクシュアリティ」であると感じている。それは生きることの一側面である。ゲイのみでもレズビアンのみでも、もちろんヘテロセクシュアルのみで人は生きるのではない。(ふふ、聖書の中でもキリストは言っていた。人はパンのみで生きるのではない)
人の生(性)を包括的に捉えるために、セクシュアリティは存在している。だがこの「セクシュアリティ」とは社会の中においてどのような存在なのだろう。その輪郭は容易には捉えがたい。
この点について、やはりセクシュアリティとは個人的なことであると同時に社会的なもの政治的なものでもあると蒙を開かれたものがあったので、ざっとまとめて紹介したい。
表題にある通り、「資本主義とゲイ・アイデンティティ」についてである。


ジョン・デミリオは「資本主義とゲイ・アイデンティティ」の中で、18世紀以来の産業資本主義の発展とゲイ・アイデンティティについて、以下の論点を提示している。
1.家族構造と機能
2.家族生活のイデオロギー
3.異性愛関係の意味の変化
これら3つの論点が資本の拡大と賃労働の出現がいかに変化させてきたのかを述べている。

「ゲイ男性とレズビアンは歴史によって作り出されたものであり、そして特定の歴史的時期に存在し始めたのだ。ゲイ男性とレズビアンの歴史的登場は資本主義的関係と結びついている。つまり、20世紀後半において、多くの女たちや男たちに自分たちをレズビアン/ゲイと呼び、自分たちに似た女や男たちからなるコミュニティの一員だと自覚し、同性愛というアイデンティティを基礎に置いた政治的組織化を行うことを可能にしたのは、資本主義と歴史的発達、より特定していえばその自由労働者システムである」

「賃労働が拡がり生産が社会化されたことによって、性が生殖への『義務』から自由になることが可能になった。家庭から経済的独立性を奪い、生殖と性との分離を促進することにより、資本主義は一部の男たちや女たちが同性への性愛的/情緒的関心を元に個人生活を作り上げていくことを可能にする諸条件を創出した。このことは都市部でのレズビアン/ゲイ・コミュニティの形成を、そしてより近年のものとしては、性的アイデンティティを基盤とした政治行動を可能にしたのである」

デミリオは資本主義がゲイやレズビアンアイデンティティの原因であるとは言っていない。だが、資本主義と自由労働の拡大は一つの契機となったのである。こうした文脈において、ゲイやレズビアンアイデンティティは歴史的条件によって、歴史的に生み出されたとしたのだ。

そもそも資本主義とは基本的には差異を生み出し、その差異に基づいて様々な集団及び階級を敵対、対抗させる。その結果劣位に位置付けられた集団から利益を得るようなシステムであると考えられている。そしてそうしたシステムは家父長制というもう一つのシステムとも共謀し、男性を公的領域、女性を私的領域に配置しそれぞれに有償労働と無償労働という差異化された労働形態を強制もした。そのような資本主義体制の拡大において、異性愛体制の元、異性愛者から差異化され、一つのアイデンティティとして生み出されたことは必然的なものと理解できる。

だが資本主義体制下において、同性愛者が異性愛家族の生活から離れて自ら生計を営む自由は確かに可能になったのだが、それはあくまで自らのセクシュアリティを隠しておく場合にのみ限られたことであった。公表すること、つまりカミングアウトすることによって職業上の隔離や差別によって経済的状況が悪化することもあったのである。多くの性的少数者が自分のセクシュアリティをオープンにすることと、経済的な安定性との間で選択を強いられていたのである。資本主義は一方では非異性愛者のアイデンティティの出現を可能にしているが、他方ではそうした人々の経済的物質的基盤の獲得と安定を阻むような存在としても機能しているのである。
クイア・アイデンティティの出現はこのような資本主義の発展と関連づけられている。19世紀には賃金労働が支配的となり、それまで生産単位として機能していた家族は家計経済の負担から解放されていく。こうした変化の中にあって、家族は「個人生活」と「消費」の中心となっていくのである。セクシュアリティに関していえば、家計を支える労働力としての子どもを持つことに重要性が置かれなくなっていくことで、セクシュアリティは生殖からも分離されていく。それは完全に分離されたわけではないが、家族は個人のアイデンティティ形成にとっては重要な基盤ではなくなったのである。
だがこのような変化、具体的には家族の解体及び生活の基盤となる共同体における社会的紐帯が弱体化していくことに対する不安が人々の間で募っていく。このような時に、ある種のセクシュアリティが病理化され、それに対処する学問として性科学ーが誕生したのだ。
そこで同性愛者という個人は医学的レッテルを貼られ、同性間の性行動は研究対象となり、定義の対象ともなったのである。

クイア・スタディーズについて

私たちの間にある差異や多様性。特にセクシュアリティに関するもの、こうした差異や多様性そして社会心理的な、あるいは歴史に根ざした構造的な問題について研究するのが「クイア・スタディーズ」である。今回はこの西洋由来の魅力的な学問をざっと見ていきたい。
そもそもクイアとは英語圏においては「変態」という意味の侮蔑語であった。そしてそれは主に同性愛者など性的少数者に向けられるものであった。同性愛の犯罪化、病理化を経て1970年代のゲイ解放運動の波の中で、クイアという単語は新たな意味を付与されていく。
クイアとは私たちの中にある差異や多様性についての思考を深化させ、また細分化された各セクシュアリティを集約させるものとしても機能していく。今回は「クイア・スタディーズ」について概観していきたい。


1.同性愛の病理化・犯罪化

同性愛という用語は、1868年にハンガリー医師ベンケルトによって考案された。それ以来同性愛は1世紀以上に渡って学問研究の対象となってきた。

19世紀後半になると、同性愛はスキャンダルとして扱われ法的な迫害も受けるようになっていく。同性愛を犯罪とし、法的に規制する動きが出てきた。だが同性愛を病理として考え、こうした言説を廃棄し、医療化していこうとする考えも出てくる。同性愛の犯罪化と医療化はほぼ同時に起きた。同性愛を医療化する言説は犯罪化に対する対抗言説として機能したのだ。

同性愛という用語の考案者であるハンガリー人医師であるカーロイ・マリア・ベンケルトは1869年にドイツで男性同性間の性行為を犯罪化する法案(ドイツ刑法175条)が提出された時にこの法案に対して反対する公開書状を法務大臣宛に送付した。同性愛者ら他の人々に危害を加えるものではなく、他の人々の権利を犯すものでもないからだ。
ベンケルトが同性愛という言葉を考案する少し前に、法律家であるカール・ハインリッヒ・ウルリヒスである。同性愛を「男性の肉体に宿る女性の魂」という考え方を提唱し、同性間の性的嗜好を「第三の性」として捉え、これ「ウラニズム」と呼んだ。これはウルリヒス自身が同性愛を病理化しようとする意図からではない。同性愛の自然性、すなわち先天性を主張しようとするものである。つまり、同性愛は先天的であるから法律で取り締まるような「自然に反する罪」にはなり得ないという考えである。
「ウラニズム」の定義は同性間の性行為を説明するために、性別カテゴリーを男/女に分割し、さらにそれを心/身という二項目と交差させ心/身に男女それぞれの形態を割り振ることに依拠している。ウラニズムはこの項目が転倒することを指す。「男の身体に女の魂/女の身体に男の魂が宿る」ことがそれである。
同性愛は先天的なものであり、医療的な治療の対象とすべきものであるという概念だ。こうした概念は「同性愛遺伝子」を見出そうとする昨今の動きを見ると既に過去のものとなったと一蹴することもできないのではないか。


2.ホモフォビアヘテロセクシズム

1972年に、精神分析学者であるギ・オッキンガムは「ホモセクシュアルな欲望」を出版した。その冒頭には、「問題なのは同性愛の欲望ではなく、同性愛に対する恐怖なのである。なぜ、その言葉を単に並べることが嫌悪や憎悪の引き金になってしまうのだろう」とある。オッキンガムは問題を同性愛を忌避し、恐怖・嫌悪する社会の側にあるとしたのである。このように同性愛を抑圧・差別する社会にその原因を求めるようになったのは解放主義的傾向が強くなった70年代に入ってからの特徴である。またレズビアン/ゲイ研究にとって「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」という概念を確立したことはパラダイム転換といっても良いほどの変化であった。
ホモフォビアという単語は心理学起源の用語であり、当初は他の恐怖症と同じようなものとして示唆しれている。オッキンガムらの提唱により、同性愛への恐怖、態度、偏見は個人の精神的状態の問題となったのだ。特にアメリカ社会では社会的な問題を個人主義的なものとして、心理学的に説明が行われることが多い。だがホモフォビアを病理化することは同性愛を病理化しない代わりに、もうひとつの病気を生み出すことにつながってしまう。ケン・プラマーは「それは精神的な疾病を強化しており…女性を無視しており…一般的な性的抑圧から目をそらす働きをし…全体的な問題を個別化してしまっている」と指摘する。またセリア・キッツィンガーは「社会の平等主義的規範から逸脱した特殊な諸個人の個人的病理になった。したがって社会制度や社会的組織に根ざした政治的問題としての我々の抑圧の分析を隠蔽してしまっている」とも言う。つまりホモフォビアは同性愛への見方を個人の意識と精神の問題として矮小化する危険性を含んでおり、同性愛差別を社会における構造的問題として捉えようとする時の隠れ蓑にもなってしまう可能性も含むのだ。
ヘテロセクシズムは対して社会学的な研究領域から出てきたものである。ただ現在ではホモフォビアヘテロセクシズムはほぼ同義の概念として流通している。そして、レズビアン/ゲイ研究においては「個人主義的な病理である」というホモフォビアの捉え方は既になされていない。


3.「クイア理論」

アメリカのアカデミズムにおいて「クイア」「クイア理論」という用語を初めて使ったのはテレサ・デ・ラウレティスである。彼女がクイアという差別用語をあえて使ったのは流動的に変化する現実が存在していたからだ。1990年にカリフォルニア大学で開催された「クイア・セオリー」と題された研究会議の中でクイア概念は提唱された。彼女はその中で、以下のように述べている。

「1990年に学会を主催しましたが、その当時、アメリカ合衆国ではよく『ゲイとレズビアン』という表現が使われていました。…全くゲイとレズビアンのそれとの間に差異がないかのように使われていたのです。私はそれを問題化したかったのです。…ゲイとレズビアンがそれぞれ持っている歴史について考えたかったのです。あえてそれを分けて考えたいと思いました。レズビアンたちはいつもフェミニズムに関わってきました。あるいはフェミニズムの理論や歴史に関わってきました。ですからレズビアンたちは文学や小説あるいは女性の歴史について書いていました。しかしゲイ・スタディーズでは主に社会学歴史学に重点を置いていたわけです。…ですから、私にとってクイア・セオリーというのは、その言葉でもってそうした問題について話すことができるような概念なのです」

ラウレティスは、特にレズビアンセクシュアリティがこれまでの歴史において抹消されてきたことを問題視する。ラウレティスは、差異を持ったセクシュアリティの歴史的固有性が見えないものにされてしまうことに対する警鐘をここでしたかったのである。また抹消されてしまう差異は、ゲイ内部あるいはレズビアン内部における差異をも指しているのだ。
1人の人間の内部に走る様々な線分をいかにして捉えることができるのか?それを模索するのがラウレティスの考える「クイア理論」なのである。さらにもう1つの問題提起として、レズビアンやゲイを研究対象とする場合の既存の学問的枠組みや体系に関するものである。従来の研究では、既存の学問的枠組みや体系に規定される側面があった。それまでの研究の主役は医学や精神医学であり、1970年代以降は社会学や心理学に取って代わられる。だがこうした変化を経ても、レズビアンやゲイを一面でしか理解していないことには変わりなかった。こうした背景を批判的に考察し、既存の学問領域を横断すること、そして学問的枠組み自体を転換していく必要性が主張されるのだ。このように、ラウレティスのクイア理論は既存の学問的体系を越えるための実践的方法論でもある。
本来的には、クイア理論とは自己と他者の間に、または自己の内部に存在する差異に目を向けることである。そして、そうした差異に敏感になり一貫性や正常性から自らが脱していくことを重視する。だがクイア概念が、一方では様々な性的少数者の集団を総称したり、包括するカテゴリーとして理解されたり、ある意味では同一化しているゲイやレズビアンの集団を排除していく方向性を取るために使われる危険もある。こうした動きは意図せざる結果かもしれないが、皮肉なものであるといえよう。


現代社会の持つ「生きづらさ」とは一体どこから出てくるものなのだろうか。私たちは様々なカテゴリーの中で生きているといえる。例えばその最小単位は「人間」であり、ジェンダー的には「男と女」となるであろう。そこに民族や宗教、人種、言語、性的アイデンティティなど……無数のカテゴライズの中で私たちは存在している。そして、性に関するもの、生殖に関するカテゴライズは強力なものとして未だに存在している。
だが、21世紀を迎えそして進歩していく科学の領域の中では男女という性差も「程度の差でしかない」との指摘もある。そうした中にあっても、人々の意識とりわけ社会制度および社会通念上はこの男女という概念は未だに「黴くさい」もののまま存在している。そしてそこからはゲイやレズビアントランスジェンダーというマイノリティは想定外、規格外の存在として周縁に追いやられる傾向が強い。
クイア理論はこれまでも書いたように、個人及び社会の中に無数に走るカテゴリーや境界について考察する学問であり、実践的な方法論の1つなのである。クイアという用語そのものはセクシュアリティに関する意味合いが強いが、何もその意図するところは同性愛者に限定されたものではないだろう。
同性愛者、異性愛者問わずこの無数の境界について考察を深めていくことは無駄なことではなく、むしろ必要不可欠なものとなっていくだろう。相互理解の第一歩は、そうした思考の模索から始まるのだから。

 

参考文献

「クイア・スタディーズ」

河口和也著

岩波書店

「セルフ・ネグレクト」

もう数年前のニュースだったが、ある親子が餓死したという記事を目にした記憶がある。彼らは市役所から生活保護を受けるように、と再三促され家庭訪問もなされていたのにも関わらず拒否し続けた末の結末であったと記憶している。
私はこの報道にかなりショックを受けた覚えがある。なぜ、こんなことが起こるのか。そしてこの時に初めて「セルフ・ネグレクト」という言葉を知った。社会保障の網や社会的繋がりから零れ落ちた人たち。彼らは助けを求めることもせず、文字通り自分自身を「放棄」する。その結果が、餓死という悲惨なものであった。
これは決して他人事ではない。日本社会はどこか、平均台の上を歩くようなところがある。高校に進学できなければ終わり、その次は大学、就職……とどこかの段階で躓いたり、外れたりすればメインストリートに戻ることは困難な雰囲気がどこかにある。
中学3年生の子どもが、進路に悩み電車に飛び込む。
これは普通のことではない。私たちの社会の何がそうまでさせるのか。そして、「セルフ・ネグレクト」にはそうした社会と、そこに生活する人の縮図がある。
今回は、「潮」6月号より「セルフ・ネグレクトとは何か」を参考にセルフ・ネグレクトについて概観していきたい。

セルフ・ネグレクトとは、日本語では「自己放任」という意味である。生活の維持に必要な行為をしないために生命、健康、安全が損なわれる状態に陥ることを指す。
例えばゴミ屋敷や多数の動物の放し飼いによる住居の不衛生や、食事、医療サービスなどの拒否によって健康や安全に悪影響を及ぼすことなどがこれに当たる。最悪の場合は死に至ることもある。
日本においては、2006年に高齢者虐待防止法が制定された頃からセルフ・ネグレクトが問題視されるようになった。2011年に内閣府が実施した調査によると、約1万人の高齢者がセルフ・ネグレクト状態にあると考えられている。
ただ、セルフ・ネグレクトに陥る人の特徴として、周囲から孤立してしまっているケースが多く、民生委員や保健師、家族や近隣住民が状況を把握しきれていないのが現状である。孤立死と思われる事例の約8割が生前に何らかのセルフ・ネグレクト状態であった可能性があると指摘する調査結果もある。

では、どのような要因によってセルフ・ネグレクトにいたるのであろうか。
まず認知症精神疾患などによる生活能力の低下が挙げられる。また他者から虐待を受けたことで、自己肯定感を喪失し、セルフ・ネグレクトに至るケースもある。
ただ一方でこうした疾患や虐待といった要因を抱えていない人々もその他の様々な要因からセルフ・ネグレクトに陥る人々もいる。すなわち「ライフイベント」が起きたことで生活意欲が低下したり、個人の性格、家族や近隣の人々からの孤立といったことが挙げられる。ライフイベントとは、例えば家族や配偶者の死などを指す。そうしたショックから日常生活への営みを放棄してしまうといった事例が挙げられる。
セルフ・ネグレクトは徐々に生きるための営みを辞めてしまうものである。象徴的なのはセルフ・ネグレクト状態にある多くの人が「生きていても仕方がない」「私のことは放っておいてください」といったことを口にすることだ。またプライドの高い人、遠慮深い性格の人がSOSのサインを出せず、または支援の手を拒否して死に至るケースも見られる。
その背景に、何らかの疾患や性格的なもの、ライフイベントによるものなど要因が様々なものであったとしても生命、健康、安全が損なわれる状態に陥っていれば等しくセルフ・ネグレクトであると認識することがポイントである。
アメリカでは多くの州で高齢者虐とセルフ・ネグレクトが同じ分類の問題とされている。ともに人権を脅かすものであると認識されているからだ。つまり、他者から放棄されるのも自分自身で放棄するのも、生命、健康、安全を危険に晒すという点においては変わりがないからだ。セルフ・ネグレクトは複数の要因が重なることで起きる。その意味では高齢者に限らず誰にでも起こりうる事態なのである。
人権意識をベースにしたセルフ・ネグレクトに対する理解と対策を社会の中に醸成していくことが必要である。


自己責任を基調とした今の社会の在り方から、いかに変化していけるのか。社会福祉社会保障の在り方も同時に問われているといえる。

ブッダのことば

ブッダのことば スッタニパータ」
中村元
岩波文庫

ブッダの真理のことば 感興の言葉」
中村元
岩波文庫


生きることは難しい。
なんてことを最近は思う。職業柄色々な人と接する。業務の内容よりも、相手との人間関係の方が辛く感じることが多い。
あぁ、人間ってなんだろうな。
生きることってなんだろうな、とその中で考えることがある。時には、私のことを誰も知らない、そして日本語すら通じないような遠い国に行ってあらゆるものを「断捨離」してしまいたくなることがある。
生きることは、多分私を縛ることでもある。それが時には辛くなる。
芥川龍之介だったか…「例えば水に顔をつけたことのない人に、泳げというと誰もがそれは無理だと言うだろう。だが、私たちはいつこの人生を生きることを学んだのだろう」という文章をどこかで見て、それから忘れることができないでいる。
生きることは難しいが、それを乗り越えるためのテキストはあってないようなものだ。宗教や哲学は誰のため、なんのためにあるのかと問われれば、ひとえにこの葛藤と曖昧さにあるだろう。

今年は東洋思想を勉強しようと私は思っている。その中で仏教も勉強したいと思っていて、岩波文庫の「ブッダのことば スッタニパータ」と「ブッダの真理のことば 感興の言葉」を買って読んだ。どれも平易で簡潔な言葉の数々である。その中から、私が個人的に気に入ったものを抜き出して、「正解のない生」について気ままに考えてみようと思う。


あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きた方がよい。命あってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。


私はようやくというか、社会人になって2ヶ月が経った。色々と思うことはある。たった1年前までは緩い学生だったなぁとか、働くことは大変なことだなぁとか、まあ色々ある。
来年春に入職の就活生が職場に見学に来ることもある。
就活自殺は別に珍しいことでもなくなった。どうしてこんなことが起こるのだろうかと思う。
自殺は決して悪いことではないと一方では思う。その人にしか分からない辛さや苦しみがあるだろう。それを他人が一般的な価値観や正論のみで裁断できて決着できるほど易しくはない。
だがそれでも思うのだ。
「生きていなければ、やはり何もできない」
生命あってこそ、とはよく言う。こういう感覚というのは、恐らく本当に生死の瀬戸際に追い詰められた人にしかその重みは分かるまい。摂食障害で死にかけた身としては、「生きてなきゃ何にもできない」というのは骨身に染みて分かったことだ。
悪いことも善いことも、できやしない。
「生きよ、生きた方がよい」
ブッダは更に言う。


立派な人々は説いたーー(i)最上の善い言葉を語れ。(ii)正しい理を語れ、理に反することを語るな。(iii)好ましい言葉を語れ。好ましからぬ言葉を語るな。(iv)真実を語れ。偽りを語るな。


だが、こうした真理を取り巻く「生」というのはあまりにも苦と迷いに満ちている。人は往々にして、難解なものよりも分かりやすくそして自分にとって都合の良い言説や言葉を好む。
人の病理であり、本能の一種ともいえるだろう。「最上の善い言葉、正しい理、好ましい言葉、真実を語ること」。この生のさなかにあっては、一抹の虚しさを、今の私は感じる。
果たしてそれを、今の私は知覚できるのだろうかと。


物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世に生存に戻って来る。
しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。


生きていればその終わりは死として成るわけだが、それは一回きりで終わるものではない。この「絶え間のなさ」が生の苦痛の本質であり、一切衆生の苦であるだろう。
世俗の欲求を捨て、些事に執着しないこと…そしてその全ての虚しさを知ること。それが「死を捨て去る」一歩であるだろう。


ものごとは心に基づき、心を主とし、心によって作り出される。もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足跡に車輪がついていくように。


何かでこんなものを読んだ。
「人は誰のことも結局幸福にも不幸にもしない。どんな言葉でも、その受け取り方によって幸福にも不幸にもなる。人は自分の心によって幸福にも不幸にもなっているのだ」
私は最近、特に「人は心である」と感じている。天国も地獄も遠い彼方にあるのではない。私の心の中にある。
「もし汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。車をひく牛の足跡に車輪がついていくように」
平易でこれ以上ないほど分かりやすい言葉だが、「何が私たちを苦しめ、救うのか」ということを顕らかにされているように思える。


学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するだろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。


学びというのは、必ずしも実利に結びつくものではない。だがそれは生きる力とはなってくれるだろう。それが真理と繋がる唯一のものともなるのだろう。
特別な言葉遣いはここにはない。だが胸を打つ。そして考える。
「学び」とはなんだろうか。「ことば」とはなんだろうか。そして「真理」とは?


もし愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ「愚者」だと言われる。


これはなんとなく、ソクラテス無知の知に相通じるものを感じる。自分の未熟さや愚かさを知ることは、賢くなることよりも大切なことなのではないか。自分が他よりも優れていると誇ることは虚しい。誰かを見下しても、生きることに寄り添う苦痛や虚しさは癒されないだろう。
私は愚かであることを知ること。
不思議とそこには癒しがある。そこから、ブッダの説く真理へと繋がる道は開けて来るように思える。

「孤独の科学」F.ルッソ

日経サイエンス」7月号より面白い論文を見つけたので要約して紹介したい。「孤独の科学」である。

孤独感がうつ状態や認知力の低下、心臓疾患、脳卒中など精神的身体的疾患につながる脆弱性と関連していることを示す証拠は近年増えている。ブリガムヤング大学の心理学者であるホルト・ランスタッドらによる研究によると、孤独感や社会的孤立は早期死亡のリスクに肥満よりも関連しているとされている。2017年時点での科学的証拠から彼は孤独感だけでなく、孤立や人間関係の乏しさなど社会的なつながりの不足は公衆衛生上の重大な懸念であると結論づけている。

人はどのくらい孤独なのだろうか。デューク大学とアリゾナ大学が2006年に発表した研究では、「親しい友人がいない」と答えたアメリカ人の数は1985年から2004年までに3倍も増えている。孤独は「社会から孤立しているとの認識及び他者から切り離される経験」と定義されている。こうした孤独感は状況が変われば気持ちも変わり得るが、研究者が「慢性的な孤独」と定義する人々は状況の変化に関係なく深い孤独を長期間にわたって感じ続ける。
キール大学の心理学者ローテンバーグによると、慢性的な孤独感を持つ人々は他の人に比べて社会情報の処理機能の問題、精神的問題、人間関係への不適応を示す可能性が高いことが複数の研究で示されていると指摘する。
またローテンバーグは「一部の人たちにとって孤独を感じるという心の動きは、特に不安にかられている時に非常に強い。長引けば心の健康が蝕まれることがある」と言う。

20世紀の半ばから、心理学者は孤独とうつ状態などの精神疾患は異なるものだと考えて孤独に着目したが、注目はされなかった。ドイツの精神分析医のライヒマンは1959年の論文で孤独は早すぎる離乳から生じるとの理論を打ち出した。1970年〜1980年代に孤独の研究は進展し、孤独感の主な原因はその人を受け入れる社会的ネットワークやコミュニティに溶け込んでいないからだと一部の研究者は仮説をたてた。つまり認知の在り方に注目したのである。

人は一生のうちに特定の時期に孤独の影響を受けやすくなることが分かってきている。特に孤独感が強いのが30歳以下の若者と60歳以上の高齢者である。例えば結婚や同棲は孤独感を防ぐことが分かっているが、こうしたものはまだ結婚しようと思っていない若者にはあまり影響はない。また配偶者との死別が当たり前になっている高齢者にとってもあまり重要ではなくなっている。
研究においては若年層の孤独感が重視されている。この年代の孤独感は生涯にわたって影響するからである。孤独な子どもはうつの青年や成人となるリスクが高いことが分かってきたからだ。孤独感が強い子どもの多くは社会的スキルに問題はない。孤独感を持って大学生も同様である。だが彼らは概して自分の振る舞いを過小評価している。孤独感が強い子どもや若者は社会的包摂や社会的排除を示す状況やイメージに他の人とは異なる反応を示すことが分かってきた。
また若者の孤独感の原因に関する研究には人への信頼感の低さに起因する、との見方もある。

孤独についての研究が進めば、特定の原因からくる孤独のリスクにさらされている人々を発見しやすくなるだろう。南デンマーク大学の心理学者ラスガードらが行った研究によると、少数民族、失業者、障がい者、長期の精神病患者、単身者といった人々がハイリスクグループとされている。
孤独な子どもは孤独な大人となる可能性が高い。若年のうちに孤独への介入が必要となるだろう。

「譲りたくないもの」改稿版

以前自分が書いていたエッセイを久し振りに読み返してみた。私は基本的に頭に浮かんだことを、特にオチもまとまりもなく好き勝手に書いていく。読んだ本の感想や、日常生活の中での気づき、そして小説や創作に関することなど…。今回読み返してみたのは小説に関するもので、ざっくり言えば「私が小説を書く上で譲ることのできないもの」を書き連ねたものだ。
改めて読み返してみても、特に自分の気持ちと変わったところはない。以下にそのまま載せた上で、気ままに加筆してみよう。

 

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正直、他人の評価を気にして自分の表現したいものを変える人の気持ちが分からない。また、評価や反応がないからといって諦めて辞める人の気持ちも分からない。
なにも、否定をしているのではない。ただ純粋に分からない。そもそも、その他大勢が求めるものと自分自身が表現したいものが重なることなんてそうないことだ。……だからこそ誰かの目を気にしてその嗜好に合わせたりするんだ!ということなのだろうけど。
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私はたとえどんなに拙い表現の仕方や切り取り方であっても、その人にしかできない表現やテーマというものがあると信じている。それは自分自身に対してもそうだ。
私には私自身にしか言えないことや書けないことが、必ずある。それを何故捻じ曲げてまで、誰かにおもねらなければならないのかが理解できない。
この点に関しては私は「傲慢」とも言えるプライドを持っている。むしろ、万人ウケし、易々と理解されてしまった方が「困る」と思っている。そして、誰かの評価や反応一つで呆気なく揺らいで挫折するほど「ヤワでつまらない」ものを、お前は表現したいと思ってるのか!とも思っている。これはほとんど怒りに近いものだ。
他の部分に関してはそう拘りはないが、こと「自分のやりたいこと/表現したいこと」に関してはかなり頑固だ。
巷で流行っているテーマやストーリーには興味がない。それを表現した方が、自分にとってメリット(ポイントとか、フォロワーだろうか?)があったとしても、そういうものに手を出そうとは全く思わない。
どうして他人と同じことをしなければならないのか、自分を曲げてまでやらなければならないか、本当に理解ができないからだ。画一的に均されるのは、もう学校教育の中で嫌というほどされたのだから、ものを作る時くらい自由気ままにやりたい。
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最近思うのが、人間というのは徹底的に孤独な存在でしかあり得ないということだ。これは哀しい思想でもあるけれど、この「孤独さ」というのが結構愛おしい。私たちは表面上は分かり合い、繋がっているように思えるけれど、所詮それも幸福な幻想にしか過ぎない。「私」を理解してくれる存在というのは結局のところ誰もいやしない。それは絶望に繋がるかというと、そうでもない。誰にも理解されないからこそ、私の内面というのは「徹底的に自由」であることも可能であるからだ。
よく、小説を書くこと (のみならず創作することは一般的に) 孤独な作業であると言われる。私にとって、そんなことは別に今更大きな顔で言われるようなことでもない。私たちの存在は根本的に孤独なのであり、その私たちのなすあらゆる行動が「孤独」であることなどは周知の事実だ。
誰かと交わらない、交わることのできない、徹底的に孤独な部分なしに文章を書くことは無理だろうと思う。
下品なたとえだが、私の小説を読んでくれる人によく「本当にオナニー小説だね」と言われる。つまり自己満足的で独りよがりということなのだけれど、それはその通りだと納得する。
読者のことなんて、基本的に考えない。記録をつけるためにここに投稿しているが、「反応があれば儲けもん」のスタイルでずっとやっている。
私が何を書きたいか、書けるかが最優先であり別に評価や反応が先に来るわけではない。
そういう意識は先述した「傲慢なプライド」に収斂されていく訳だが、自己表現とはそういうものだと思っている。
高尚なことはなにもない。ある意味、残酷なものだと、ふと思う。
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だから媚びたら終わりだし、それは自分で自分を殺すようなものだと思っている。
沢山の人が絵を描いたり、小説を書いたりしているが私はそういう人を見かけた時に、「この人にはこの人にしか表現できない世界があるんだろうなぁ」という思いで眺めている。
そこに他者の軸が横入りして、汲々とさせている/しているのを見つけると、残念な気持ちになる。
「あなたは何を表現したいの?」と面と向かって聞きたくなる。多数に是があり、人気のあるもの、売れるものが正しく面白いなんて誰が決めたのかと「ベストセラー」や「芥川賞」などを見ると思う。そういうものは、最も醜悪な価値観の一つだろうと私は常々思っている。
ゴッホゴーギャンが生前どんな扱いを受けたのか見れば、流行り廃りの薄っぺらさは自明である。
人はそんなに強くないんだよ!と言われればそれまでだが、私は自分の持っている視点やそれを切り取る文章を、簡単に揺るがせたくはない。
誰にだって、武器はあるのだから斬り込む意味はあると思っている。それがまだ「なまくら」だと思うのなら、人の倍勉強すれば良いだけだと思う。
私も日々勉強であると思っているし、自分に才能があるとも思ってない。ただ、表現したいものだけは誰かによって揺るがせたくないだけである。
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そして、こんなマイペースな私の書くものを読んで感想をくれる人達を大切にできれば望むものは何もない。
テーマを見つけること、とにかく勉強して文章を磨くこと、周りの人を大切にすること、これだけは絶対に誰にも譲りたくはない。

もしも言葉がなかったら、私達はどういう存在になっているのだろうか。言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。だが、語る者は、最終的には自分の非力さを告白する。
バタイユ「エロティシズム」
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たらたらと書いているが、私にとって大切なことは「誰に見られるか、何を言われるか」ではなく、「自分が何をどう書くか」でしかない。
ここで私は読み返しても、結構キツイことを書いているなぁと思う。

人はそんなに強くない。認められたいし、褒められたい。
それでもいいだろう。だがそれは、孤独を愛し耐えた上でなければ、多分実にはならず血肉にはならないだろう。
「私」という存在は弱い。それを乗り越えるために、癒すために、自己表現があるのなら、まずはその弱さを自分の目で見つめる必要があると思うのだ。
他者に尋ねるのは、それからでも遅くはない。ただでさえ、現代は孤独に対してうるさい。雑音が多過ぎる。表現する上において、最良の調味料はなんだろうか。
私にとっては「孤独」であり、このエッセイの中で挙げた諸々の「譲りたくないもの」たちのことである。